極彩禁域
第一章:名もなき怪物
この国は五つの州から成る……と大半の国民は思っているが、地の底にもう一つ、隠された州がある。 深い森の奥、岩戸に隠された崖の大穴から繋がる洞窟の中。草履が鳴らす軽い足音が、四方の壁に当たって反響する。篝火に照らされて浮き上がる大きな人影は、悠々と躊躇いなく、洞窟を奥へ進んでいく。刹那吹き抜けた隙間風が、壁面の神棚を飾る紙垂を揺らした。
「私と契約しなさい。望むなら肉体でも寿命でも何でも差し上げます」
この知られざる地に、生きた人間の来客とは珍しい。そしてその酔狂な人間が、ここに封じられた凶神に「降れ」などとと命じるのだ。それらを解き放てば人間はまた、理不尽に降り注ぐ災厄に悶え苦しむことになるだろうに。
「私には成し遂げたい大きな夢があります。お前達も、長年この禁域に封じられ退屈していたでしょう? 力を貸すなら娑婆に出してやると言っているのです」
奇天烈。そんな言葉が似合う、その人間は続けた。
「私と契約して共にこの国を理想郷にしましょう」
その人間は大手を広げて、凶神の力をその胸に歓迎した。 契約成立の証の地鳴りは、人々に何度目かの終末を知らせる鐘の音の代わりなのかも知れない。
時は西暦二七一八年春。この日を境に、ここ虹華帝国の中央部にのみ棲む化け物――通称「穢魂」が急増した。地を這うものもあれば空を飛ぶものもあるその姿は、様々な生き物を合成して作ったような見た目をしており、大概の人々の目には、心臓が毳立つかと思うほど気持ち悪く映る。
――ついさっき、大事件が収束したばかりではなかったっけ?
虹華国民、殊に首都・橙城地区民は、胸の前で撫で下ろそうとする手を逆に捻られたような心地がしていた。
「今日も今日とて食うもんが無ぇ」 死骸に集る蝿の羽音、そしてそれと競うように騒ぎ立てる腹の虫。孤児の少年・胡兵は丹塗りの大門の下で悪知恵を巡らす。ここは白金地区、虹華帝国随一のスラム街だ。生存の為には罪もへったくれもない。躊躇えばこの大門の中に転がる白骨のように、孤独に粗末にねむることになる。 身よりも仕事も無い胡兵は毎日、盗んだ食料や殆どゴミに近い拾い物を食べながらその命を繋いでいた。ここが貧民窟だとて、悪さを積み重ねれば悪評も立つ。だから胡兵には家族どころか友達も居ない。渇いた口が紡ぐのは常に独り言のみで、耳を傾けるものは誰一人居ないのだ。どうせ誰も見ていないし、誰も止めはしないし。清く正しく生きようなんて気も起きようがなかった。 自分を捨てて行った両親は今何処に居て何をしているのか? 胡兵はいつしかそんな事にも興味を失くし、否、考えれば考えるほど腑に黒い澱みが溜まっていくから、頭から排除するようになっていた。元々は暗色だったはずの頭髪はいつからか真っ白に色が抜け、夢や理想なんかもすっかり、ぼんやりとした曇った像でしか思い描けない。ただただその体が死ぬことだけを拒むから、生かすために坂を転がるように動くだけ。 「駅前あたり、狩りに行くか」 駅前ならば余所者も多く、地元民より金目のものを持っている可能性が高いだろうと踏んだ胡兵。痩せこけた脚で、吹き抜ける春一番と並んで駆ける。 駅前は商店街。都会ほどではないがそれなりに賑わう。襤褸を着た人々が僅かな有金を握りしめて、店頭に並ぶ商品を吟味したりなどしている。そして、旅芸人や街頭紙芝居が街角に更なる賑やかさを添えていた。 「遠い昔、とても美しい羽虫が居ました。その羽虫を見たものは皆その美しさに夢中になり、嫌なこともすっかり忘れて幸せに暮らしました」 紙芝居屋の前には、つまらない昔話に退屈そうな顔を浮かべる地元の子供二人。その後ろで、この街の者ではなさそうな身なりの人物が紙芝居に見入っている。 「……さらにある者は一攫千金、ある者は立身出世を叶え、そして後にその羽虫は幸せを呼ぶ夢見鳥と呼ばれるようになりました」 紙芝居は終幕した。しかしそんな小綺麗な絵空事など、この街の者は誰も求めていない。もっと痛烈で爽快な刺激でなければ、彼らの脳細胞を軽くひと撫ですることすら出来やしない。子供二人は紙芝居屋に、方言まじりの口汚い野次を飛ばして帰っていく。それに対してか、 「いいじゃないですか夢があって。Boys be ambitious!」 と、縁から白い幕を垂らした笠を被った「余所者」が言う。 その様子を更に後ろから見ていた胡兵は、優雅な貧民街観光に苛立ちを覚えつつもカモと狙いを定めて駆け寄って、「余所者」の袖から紙切れを一枚盗み出した。丁度紙幣くらいの大きさのその紙切れは、期待を裏切って紙幣ではなく、虹華帝国首都である橙城地区行きの鉄道の切符。 「……あ〜盗られてしまったか」 走れば追いつくだろうものを追いかけもせず、間の抜けた緊張感のない声を漏らす。男か女かもわからない、顔も何もかも隠した格好をした「余所者」は、走り抜けていく胡兵の後ろ姿をぼんやり眺めながら、 「あの切符は――碌なものではないのだが、私が持っているよりは面白そうだ。吉と出るか凶と出るか……」 幕の隙間から覗く口角をニヤリと引き上げて、その場を立ち去った。 ――治安が悪いのは承知だったが、よりにもよってあんなものを奪っていくとは。 国で一番栄えた街なら、飽食の民の余した残飯にくらいはありつけるだろうと胡兵は目を輝かす。 「……もし夢見鳥がいるんなら、こんな貧民街よりキレイな都だろうなあ」 一度は売り払って金に変えてしまおうとも思ったその切符を使って、胡兵は汽車に乗り橙城地区へ向かうことにした。この地区では少し珍しい、レンガ造りの古びた駅舎は、来るものを拒まず去るものを追わず――盗品の切符を携えた胡兵でも構わず迎え入れるのだった。 「坊や、一人旅? 降りるまで切符無くさないでね」 車掌が切符に鋏を入れる。生まれて初めて汽車に乗り込むのが、盗んた切符を使ってというのも決して心地のいいものではないし、そもそも長旅に不慣れな胡兵は終始強張った面持ちをしていた。都での新しい生活も皆目見当はつかない。それでも胡兵は久々に、目の前にほんの一筋光が差したような感覚を覚えた。口を真一文字に結んだまま、白金地区を出て南東方向、虹華帝国中心部へ向かって走る車窓から、咲き始めの菜の花畑を眺める。 橙城駅を出ると、見たこともない華やいだ街が広がっていた。白金地区より高い建物が多いし、洋風建築も建ち並ぶ。街路樹や花壇も整備されていて、都会的でありながら緑が多い美しい街だ。一度街に着いてしまえばこっちのものと、それまで胸につっかえていたえも言われぬ心地の悪さも吹き飛び、胡兵は新たな冒険の気配に心を躍らせる。 「ちょっとアンタ!」 どこへ行こうか決めかねて、駅前でしばし立ち止まっていると、通りすがりの婦人が胡兵のその姿を奇怪そうにジロジロ見ながら近寄ってきて、 「えらいボロボロじゃないの、穢魂にでも襲われた?」 と一方的にまくし立てる。 「怪我はしてない? お医者さん紹介しようか?」 彼女は強引に胡兵の手を引っ張って、淡い青緑色に塗られた壁が印象的な個人医院の前に連れてきた。小さな診療所の、アーチ型の入り口から、ノックと同時にドアを開いて中へ進む。 「青桐先生急患です!」 怪我なんてしてないと思うけどなぁ、と胡兵は戸惑うも、抵抗もできずにずるずる引き込まれていく。 「ウチ、もう閉業したんだけど……」 つれない言葉を返しながら奥から出てきたのは、まだぎりぎり未成年に見える若い女の子だった。彼女は明らかに傍迷惑そうに顔をしかめているが、その腕には応急処置に使う包帯やガーゼなどの医療品一式が抱えられている。蒼い着物の上に、白い衣を重ねて着ている。仕事がしやすいようにか、袖は紐で絞られていた。 「で、どこが痛むの」 医院の少女が胡兵と会話を始めると、気づけば先ほどの婦人はさっさといなくなってしまっていた。少女は「ふーん」などと素っ気ない相槌を打ちながら、胡兵がたどたどしく語るこれまでの経緯に耳を傾ける。 青桐先生、というのはどうやら彼女の父親のことのようだった。鱗。それが娘である彼女の名だ。長い藍色の艶やかな髪が印象的な、齢十八の少女。 「あのおばちゃんお節介で有名なの」 「お節介……ちゅうか強引だな」 「それはそうとアンタ、たしかに怪我はなさそうだけど随分小汚いね」 鱗は頬杖をついて呆れたような目線を胡兵に向けながら溜め息混じりに、 「どこから来たの? この辺の子じゃないでしょ」 と事情聴取を進めていく。白金地区から飯を求めてきた、という胡兵の供述で、ある程度をなんとなく察した鱗はさらに、 「滞在先は? 帰りはどうするつもり」 と畳み掛ける。まともな答えが返ってくるとは期待もせず。 その日から、胡兵はこの青桐医院の一室を借りて、寄居することになった。 今は家としてしか使われていない青桐医院にはもう一人住人が居て、鱗の母が病に伏しているらしい。 「感染るような病気じゃないから」 鱗はそう念を押して、胡兵を居住スペースに招き入れた。 働かざるもの食うべからずと、鱗は胡兵に食事を与える口実に、街の人々の御用聞をさせる。人の家に上がる時は「お邪魔します」と言うんだとか、胡兵はそれまでそんな躾も受けたことがなかったことを初めて自覚した。 都での最初の一日を過ごした胡兵。一晩寝て翌朝、改めて鱗に働くのかどうか尋ねられた。胡兵は、まともなご飯とやわらかくてあたたかい布団にすっかり気をよくし、鱗の言うままに働きますと調子よく答える。 ――鱗さんツンツンしてて無愛想だけどよく見たら可愛いし、なんだかんだ優しいし……もしかして夢見鳥って鱗さんのことか? これまでとは打って変わって豊かな生活をつまみ食いして浮かれている胡兵とは対象的に、鱗は至って冷静で、不機嫌にさえ見える固い表情を崩さない。 「じゃあさっそくだけど」 鱗は紙切れに簡単な地図を書いたものを胡兵に渡し、 「この家でお手伝いしてきて。それが今日の仕事」 と切り出す。胡兵はこの医院で鱗の助手をするのかと思っていたが、「ここにアンタにできる仕事なんか無い」と鱗は突き放した。 それから胡兵は目まぐるしく、次から次へとこの街に住む知らない人の手伝いをした。一週間ほど経った日、一日働き疲れ果てて青桐医院に戻ると、 「アンタの働き、みんな褒めてたよ。頼んでよかったーって」 かわいいし優しいけど冷たいと思っている鱗のその台詞に胡兵は一瞬戸惑う。 「気持ちよく汗を流した後に食べるご飯は、ゴミ箱漁って食べる残飯よりマシでしょ」 胡兵の中に起こる彼にはまだ言い表せない感覚を、鱗は言語化しようと試みた。非常識というか、ろくな教育を受けてこられなかったのだと想像した鱗は、きっと胡兵はまだ自分でその感覚を咀嚼しきれないだろうと思ったのである。当然足手纏いな場面も多かろうが、一生懸命やれば今はそれで良い。鱗は胡兵にお駄賃として幾らかの小銭を手渡し、 「幻の夢見鳥なんて追うよりも、早くこの街に馴染んで生きていけるようになりなよ」 と鱗なりの歓迎と激励の言葉を投げかけた。 ――そういえば、はじめに胡兵が来た時、怪我がないか一応確認したけれど。背中の妙なアザ、やっぱりすこし気になるなあ。 胡兵の背中の真ん中に広がるアザ。複雑な模様のようにも見え、もしかすると刺青かとも思ったが、本人の身に覚えはないらしい。痛みや違和感を訴えるでもなく、また、所々掠れたように薄くなっていて、新しいものというわけでもなさそうだった。それならば様子を見ておけばいいか、と鱗はその場では特に何もしなかった。 ――あとで調べてみよう。 明日は祝日を口実に仕事を休めるし、胡兵にもどこか外で遊んでいてもらえれば自由に過ごせる。鱗は日頃から足繁く通う図書館に、資料を探しに行こうと考えた。 「……あった! 似ている、この紋様に」 ようやっと探し当てた分厚い風土史の本から得た情報は、決して朗報とは言えないものであった。 三 胡兵が橙城に来て二週間あまり。 「今日も一日お疲れ様、おやすみ」 鱗は肩の横で手をひらひらさせながら、胡兵との会話を切り上げて部屋を立ち去り、その足で医院の部屋を次々消灯していく。全ての部屋の消灯が済むと、いつも鱗は一人で家から出て行ってしまう。 街の人々はとうに寝静まった時間。ガス灯が照らすのは誰もいないレンガ道と蛾くらいなもの。胡兵こそ、それまでまともな生活を送っていなかったのだから夜中に出歩くことに抵抗もないが、それでも決して安全ではないことくらい知っている。 ――毎夜毎夜一体どこへ? そもそも鱗さんって何者なんだ…… 胡兵は、一度鱗の後を尾けてみることにした。玄関のドアをそっと開け、少しの階段を降りる。通りは十分過ぎるほどの街灯が照らし、明るい。鱗の後ろ姿もまだ見えた。 尾行を始めてからほんの五、六分経った頃だった。ガサ、と木の影から物音。枝葉を揺するほどの風は吹いていないのに。鼻歌まじりに歩いていた胡兵がその気配に鳥肌を立てた刹那、淀み濁った奇声と共に、木陰から飛び出してきた巨大な化け物。 橙城地区に来て日が浅い胡兵は、その化け物を初めて見た。大きな土竜に似た躯体に色々なものを混ぜたような奇妙な姿。化け物は攻撃性を顕にし、胡兵に向かって蝙蝠のような脚を振り下ろす。踊らされるように胡兵は襲撃を躱すも、戦闘経験のない胡兵はその場から走り去る他に策がない。情けない悲鳴を上げながら、走る、走る。 真後ろに迫り来る化け物の影に、全身を覆われる。胡兵にはもはや死を覚悟する余裕さえ無かった。 化け物の動きがほんの一瞬止まる。 何らか小さな衝撃を受けて狼狽する化け物。頭に刺さった小型の刃物がきらめく。誰かの助太刀だろうか。胡兵の背後から聞き慣れた声で、 「壊死」 その呪文と共に、化け物の頭は内側から破裂するように消し飛んだ。 「なんだアンタか、なにやってんの?」 胡兵に化け物狩りの芸当を披露したのは、鱗だった。初めに出会った時から何一つ変わらない、呆れた顔で胡兵を一瞥し、言う。 「穢魂に食われたらおしまいだよ」 妖怪のようなそれは近頃増えていて、色々な生き物の死骸が集合してうまれる。鱗の大雑把な説明から、胡兵は大体そのような事を知った。 「そしてあたしは穢魂を滅する退魔師」 「退魔師⁈ かっこいいなぁ!」 「かっこいい……? あたしほんとは戦闘員じゃないんだけどね……」 鱗の意外な生業は、胡兵の少年心をくすぐった。 「穢魂は、虹華帝国のなかでもここ橙城地区のある――艮州にしか居ないんだ。それがせめてもの救いではあるけど」 鱗は相変わらず浮かない顔をさらに歪めて続ける。 「穢魂に食われたら廃人になっちゃうから。夜に活発になるから、一人で出歩かないで」 穢魂の好物は人の心の隙間。誰しも獲物になり得るから危険なのだと鱗は付け足した。 「仕事中だし送れないからさ、今日は着いてきな」 鱗に付き添って暗夜をパトロール。この日はそれ以降、新たに穢魂に出くわすことなく朝を迎えた。 そしてまた胡兵は使い走りに出され、帰宅後。 「なあ鱗さん、なんでオレ、御用聞ばっかさせられてんの」 と切り出す。胡兵は机をバンと叩き、 「オレは自分が幸せになるのに忙しいんだよ、他人の世話なんてしてる場合か!」 青桐医院での生活への慣れが態度に出る。鱗は読んでいた本から目線だけ逸らして、溜め息をつきながら、 「自分のことばっか考えててしんどくないの? 他所に目を向けてれば気が逸れるじゃん」 と返した。さらに、「情けは人の為ならず」「果報は寝て待て」と畳み掛け、 「がっつくんじゃないよ、みっともないな」 と一蹴した。 「オレは理不尽な社会の常識には従わねー! 楽して幸せになれなきゃ仕方ないんだ! ……でも橙城に来てからいろんな人に聞いてみてるけど誰も夢見鳥なんか見てないって……」 「当たり前でしょ、架空の生物だし。現実に存在するわけがない」 鱗は部屋を出て、台所へ向かって行ってしまう。胡兵はその後を金魚の糞のように追いかける。 「夢がないなあ、どいつもこいつも! 幸せになりたくねーのか〜?」 「ないたいからってなれるもんじゃなくない? だからアンタ……苦しんできたんじゃないの?」 食事の支度を始めようとも、鱗は胡兵の戯言に付き合わされる。 「そうです! だからオレはこれ以上苦労したくないんだよ!」 胡兵はさらに、住む家があってご飯に困っていない鱗と、気づいたら貧民街に捨てられて家族のことも知らない自分とを比較して、不公平だとぼやく。 「もっとオレにツキまわってきたって良くねーか。鱗さんだってオレのこと可哀想だと思ってここに居させてくれてるんだろ?」 「べつにそう言うつもりじゃない」 鱗は思わず一瞬手を止めた。 「いいよなぁ。オレも金持ちの家に生まれてみたいわ、余裕の気持ちで弱者に手を差し伸べる、優越感たるや……」 都の一等地に洋風の意匠を取り入れた建築を構えられる家庭が、この国では比較的裕福な方なのは事実。鱗はそれ以上何を返せばいいかわからず、胡兵を台所から追い出してひたすら野菜を切り刻む。 ――ほんと何なのアイツ⁉︎ 匿ってやってんだから感謝されたっていいくらいなのに、そんなの期待しちゃいないけどそれにしたって……! 口に出せない分の憤りを、包丁でまな板にぶつける鱗。ガンガンと鳴り響く音に痺れを切らした鱗の母が、少し離れた部屋に居たまま、 「やめて! うるさい!」 と叫ぶのが、台所にまで聞こえた。 ――ああ、いけない我慢我慢……母さんが荒れたらもっと大変なんだ…… 鱗は深呼吸をして、まな板に飛び散った胡瓜を集めて皿に盛り付ける。 「今日の夕飯はなにかな」 毎度のご飯を楽しみにしている胡兵は、先ほどのやりとりなど忘れたかのように鱗に投げかけた。 「そこにあるから勝手に食べな」 示された机上にあるのは野菜だけが切り刻まれて山盛りにされたもので、胡兵が想像していたいつもの食事とは毛色が違った。かろうじて味付けはされているらしい。不思議がる胡兵に、 「ちょっと野菜切りすぎてさ」 と鱗が言うと、 「そっか鱗さんでもそんな事あるんだ」 と胡兵は妙に納得したような返事をして、いただきまーす、と食べ始めた。 ――鈍い奴で良かったな……早いところ生活力を身につけさせて追い出さないと…… 一旦匿ってしまった手前、このまま放棄するのは無責任、と頭を抱える鱗。自分の限界はなんとなくわかるし、ダメになる前に少しだけでも誰かにこの役割を変わってほしい、と鱗は考えを巡らす。この非常識な小僧に教育を施せる人物に心当たりがあるとすれば。 それから少し季節が流れて夏。 胡兵は未だ、夢見鳥の話をぶつぶつ続ける。この日の胡兵に振られた仕事は穴の空いた服の直しで、覚束無い手つきでゆっくりと継接ぎを縫い進めながら、鱗と軽口を叩き合う。 窓からその賑やかな声が漏れていて、医院の玄関先でそんな様子に「珍しいな」と呟く人の影。 「鞍寅はここで待っていて」 鞍寅、と呼ばれた馴鹿のような動物は、その人物によって玄関の柱に繋がれた。白く細い指を軽く握った右手で、医院のドアをノックする。 「ごめんください、ご無沙汰です」 「あら瀬々ちゃん、虹華に帰っていたの」 客人の女性・瀬々と鱗は顔見知りのようだった。瀬々は慣れた様子で診察室に入り、壁際に少し重そうな鞄を置いた。 「ついさっき着いたばっかりです、そろそろメンテの時期かなーと……」 瀬々は、今はそれとしては使われていない診察室をぐるりと見回して、胡兵の姿を見つけて微笑んだ。胡兵は分かりやすく鼻の下を伸ばす……。 「ほら胡兵、挨拶しな。あたしの友人の瀬々ちゃんだよ」 「はじめまして」 鱗による紹介に続く瀬々は、胸前で右掌と左拳を合わせるポーズで挨拶をした。大きな瞳を細めて笑いかける、優しげな雰囲気に胡兵はデレデレと表情筋を緩める。 「はじめまして! そりゃあもうめっちゃはじめまして!」 「元気な少年ですね、よろしく」 瀬々の美貌にフニャフニャと目尻を下げる人間など、鱗は飽きるほどに見慣れている。はあ、と息をついて鱗は瀬々に、胡兵について「迷子」と説明した。 瀬々の訪問の目的であった「メンテナンス」。大きな不備は無かったものの、鱗は〝使い方〟が荒いことを察知して指摘した。瀬々は診察のためにはだけさせた着物を直しながら、鱗の小言を聞いている。 「……こんな粗末に扱ったらあの人、嫌な顔するんじゃないの」 「あの人が嫌な顔してるのはいつものことですよ」 瀬々は顔一面に笑顔を貼り付けてヘラヘラ応えた。 「瀬々ちゃん、この後……彼のところ、整備に行くでしょ? だったら――」 鱗は胡兵の方をチラと見て、 「胡兵を一緒に連れてってくれない?」 と打診する。 「構いませんが、お使いなら任せていただいても」 「それもそうなんだけど……コイツの見聞を広める機会に、ね」 「なるほどです、道案内ならお任せください!」 本人を差し置いてトントン進んでいく会話を、胡兵は顔を引き攣らせて傍観している。 「そうと決まれば胡兵、アンタ準備してきな」 準備もなにも、胡兵はもともと特に荷物も着替えも持っていない。準備とは何か? 胡兵が考えながらその場であたふたしている間、 「それで、この前遺跡で面白いものを見つけたんです」 「どうせガラクタでしょ」 瀬々と鱗は胡兵に構わず雑談を繰り広げている。 「ガラクタじゃありません! 何とその昔、三種の神器と呼ばれていた……!」 ――鏡と剣と玉? そんな鱗の想像を大きく裏切って、瀬々は 「テレビですよ‼︎」 と興奮気味に語り始めた。 虹華帝国は、かつて滅亡した文明の趾に建つ。各地の遺跡に眠る旧文明は虹華の発展を支える一つの柱。瀬々は国内外をウロウロと旅をしながら、時に行商をしたり、また遺跡の発掘調査をしたりして生計を立てている。瀬々曰く、生活用品の類は旧文明の暮らしの跡が生々しく残り、浪漫を感じるのだとか。 熱い語りを聞いても依然として冷めたままの鱗は、別の話題を切り出そうとする。 「そんなことより瀬々ちゃん……新しいネタはないの?」 「ネタ、と言いますと」 瀬々は嫌な予感がしながらも一応聞き返す。 「恋バナに決まってんでしょ! あたしを誰と心得てるの? 他人の恋バナをおかずに白米を食べる女だよ!」 「それは失礼、生憎入荷待ちでして――」 昂る鱗をヒラリと受け流す瀬々。 「そうでした、まだ本題が残っていたんです」 瀬々は鞄から茶封筒を取り出すと、鱗に手渡した。行商で得た、鱗の作る薬の売上だ。 「あ、そうだった。いつもありがとう瀬々ちゃん」 鱗は直ぐに平静に戻って金額を確認した。慣れた手捌きで封筒を開き、紙幣の枚数を数えて、そして小銭を左掌に乗せて右手の人差し指でなぞる。 一連の女子トークの盛り上がりに傍で呆然としていた胡兵に、 「鱗ちゃんの薬はよく効くって評判なんですよ、外国の方は苦いと仰いますが……」 と瀬々がなんとなしに声をかけた。 「良薬は苦いものだよ。ね、胡兵」 胡兵は何の話かよくわからないまま、ただ漠然と良からぬ予感がしていた。いつものことながら締まりのない表情の胡兵を一瞥する鱗。 ――ボーッとしてられるのも今のうちだよ。「大蛇の毒牙」の異名を恣にした荒武者に、みっちりしごかれておいで! 四 馴鹿の鞍寅に荷車を引かせて歩く瀬々。その横を胡兵が着いて歩く。行き先は橙城地区のある艮州を出て北側、坎州にある町・墨波地区。街の中心から離れれば離れるほど、道路は未舗装の砂利道に変わり、木々や草花などの自然風景が増えてきた。 「これから会いに行く人ってどんな人……?」 胡兵は別に興味があるわけではないが、あらかじめ聞けることは知っておきたかった。 「んー。影のある雰囲気の方ですね……あ、もしかして不安ですか? それなら弱点をお教えしておけば安心できますかね」 瀬々は続けて、 「お菓子で簡単に釣れる甘党です。そしてどうやら不眠症のようで、日中はぼんやりしてることが多いですよ。仕留めるなら昼間がオススメですね」 ――綺麗なお姉さんだなあと思っていたけど、話せば話すほどこの人は…… 一体何を言っているんだろう、と胡兵は困惑した。鱗は友達と言っていたが、瀬々は鱗より少し歳上の二十三歳。赤みを帯びた髪を輪にした結び目から、髪と似た色味の長いリボンを垂らしている。短いキュロット様の袴からはすらりと細長い脚が伸びていて、和風の出立なのに足元にはエンジニアブーツ。そんな風貌の彼女の、仕草も口調もどことなく可憐なのに発言内容がイマイチそぐわないことに、胡兵は形容し難い不思議さを覚えた。 「胡兵くん、アレをご覧ください、アレ」 瀬々が指差した方に、地面に何か細い棒のようなものが突き立てられているのが見える。 「なに? 刀?」 胡兵は少し近づいた。柄巻きは傷んでほつれているし、鍔も刀身もびっしりと錆び付いていて、斬るだの突くだのと言った本来の使い方はできそうにない。 「これが見えたと言うことは、もうすぐ艮州を出ますよ。目的地が近づきました!」 瀬々によれば、この錆刀は艮州境のあちこちに、同様に突き立てられてあるらしい。 「穢魂が艮州にしかいないのは、コレが結界を張っているからです。読まなくてもわかる……強い魔脚を感じます」 「魔脚……?」 「その目的は穢魂を他州にまで出させないためなのか、或いは穢魂を艮州に集中させるためか……」 胡兵の疑問に答えないまま勝手に話を続ける瀬々。 「わかりませんけどね」 「わからんのかい!」 その自由っぷりに振り回される胡兵。二人が駄弁りながら歩く横で、鞍寅が不意に立ち止まったと思うと、向かう方向を変えてしまった。 「どうしたの鞍寅――」 瀬々が鞍寅を追った先にいたのは。 「んー? お前は……鞍寅、じゃないか?」 道端に埋まるように佇む大きな岩に腰掛けて休む、瀬々よりもまたさらに歳上であろう女性が、鞍寅に気づいて振り向いた。 「これはこれは〜……ご無沙汰でした、瀬々様」 女性はにっこりと微笑み、立ち上がって瀬々と胡兵の方へ歩いてきた。女性は背が高く、その低めの声も相まって、近くに寄ると威圧感さえ感じた。 白い髪を頭の高い位置で花のように結い上げ、顔の左半分には長い前髪がかかる。佇まいは飄々と見えるが、胡兵をぼんやりと見つめるのはどこか憂いを帯びたような眼差し。居心地の悪さを感じた胡兵は少しの沈黙にも耐えずに口を開いた。 「瀬々さん、知り合い……?」 「ええと、かつての使用人であり師匠です、わたしの……師匠、今まで一体どこで何を、『あの日』あの後、何があったのです⁈」 瀬々は慌てたように女性に問い詰める。 「……あの日以来、文字通り路頭に迷うことになった狗は私だけではありません。貴女をお守りする任も解かれてしまって〜……」 女性はやれやれと言った面持ちで続けた。 「朱桜離宮も燃えて跡形もないですしねぇ、私はあれから各地を転々……とても人には言えない仕事をしています……」 「とても人には言えない仕事……?」 瀬々と胡兵は唾を飲み、恐る恐る聞いた。 「そう……言ってしまえば無職です。……あぁ、任を解かれたとは言え貴女のことは気がかりでした、鞍寅も……元気そうでなにより」 女性は鞍寅の頭を撫でながら答える。胡兵はこの女性について、「瀬々よりさらにマイペース」と思った。女性と話し始めてから急に空気がまったりしたように感じていた。 「先ほど覗き見してきた、愚弟の様子も相変わらずでしたし〜……」 「愚弟? 弟なんていたんですか」 瀬々はようやっと再開できた師匠に、食いつきそうな勢いを抑えながら話している。 「話したこと、ありませんでしたっけ?」 首を傾げる女性に、 「あなたはあまり生家の話はしてくれなかったでしょう」 と瀬々は返す。 「そう言えばー……そうでした。私にとっては正直なところ居心地がいい家とは言えませんで、ふつうの家庭を夢見る瀬々様にお聞かせできる話を持ち合わせていなくて〜……」 女性は終始淡々と話し、それでも興味がおありなら追々お話ししましょう、と言い、去ってしまった。 「ええ⁈ 待っ……」 瀬々は追いかけようとしたものの、すぐに立ち止まった。少しの間、去り行く師匠の背中を見送って、本来の経路に戻った。 「すみません、胡兵くんにはよくわからない話でしたね。鞍寅も彼女とは旧知なので、見つけて近寄りたかったのかも」 そう話す瀬々は笑っていたが、なんとなく幾分ぎこちないように胡兵には見えた。それを誤魔化す様に瀬々はすぐさま違う話題に移る。 「そういえば、これから会いに行くお方は絡繰人形職人なんですよ」 肩にかけた頭陀袋のような布鞄から、掌に収まるくらいの小さな人形を取り出し、胡兵に差し出して見せた。 「わたしは子供の頃から虹華の絡繰人形が好きで……これはまた、今回会いにいく職人とは別の作者のものですが」 絡繰人形は虹華の伝統工芸品の一つで、外国人にもその独特の顔つきやユニークな動きが人気なんだとか。 道中、胡兵が退屈しない様に瀬々は次々に話題を変えながらお喋りをした。そんな中、 「そういえば胡兵くん、夢見鳥を探しているんですってね」 鱗から聞いたのだろうか、瀬々はそう切り出した。 「鱗さんには馬鹿にされてるけど、オレ幸せになりたいんだ」 「幸せってどんな?」 瀬々が何の気無しに聞き返し、胡兵は言葉に詰まる。 「どんな? どんな……? えーと美味しい飯にあったかい布団……?」 「……幸福は夢幻。しかし今も昔も人々の心の支えですよね」 瀬々の顔には乾いた笑いが張り付いている。 「そんな漠然とした幸せなんて宗教屋の商品なんかより、もっと具体的な……大きな夢を見ては?」 アーモンド型の大きな目の中に光る、琥珀の様な瞳。向けられた眼差しに胡兵は、何かを責められているような気分になった。 ――不幸に囚われて、そこから逃げるのに必死なのね? 胡兵の脳内に響く幻聴。幻聴だと直ぐに悟ったのは、目の前の瀬々の口元の動きが聞こえた声と一致していないのは見えていたから。直後瀬々はとぼけるでもなく、 「あれ……胡兵くん、前にどこかでお会いしてましたっけ?」 と訊いた。 青ざめた顔で首を横に振る胡兵。 「そうですよね、すみません変なこと言って」 瀬々がそう言うのを半分聞きながらもう半分は、遠くで騒ぐ何者かの声を聞き取ろうとして、しかし聞き取れずに、やがて頭の中は静まり元に戻った。 ――そうか、オレ、新生活で疲れてるのかもしれない。 胡兵はそのように納得しようとした。 「もうすぐ着きますよ。胡兵くん、頑張って!」 街を抜け、舗装されていない砂利道や、勾配のきつい山道をのぼり、やがて坂は下りに変わる。上り坂はもちろん、下り坂はまた別の負担が足腰にかかる。胡兵は正直、こういう起伏の激しい土地の行き来には慣れていなくて、疲れを感じた。 一般的には汽車に乗るような距離を、二人は一日かけて歩いて来た。鞍寅がいても貨車に乗せて汽車移動は可能なのだが、瀬々は普段からこのように徒歩移動することがほとんどなのだ。 まだ日が暮れるには時間があるが、もう夕方。二人の目の前に、西日に照らされた街の影が見え始めていた。 五 日没前、瀬々に連れられてようやく辿り着いたのは、青桐医院とは対照的な和風建築の家。瓦葺の大きな門の前で、鞍寅が立ち止まる。 「鞍寅はやっぱり入らないのね」 瀬々は鞍寅の手綱を門前の木の幹に括り付け、行きましょうか、と胡兵を前に促した。 「いつもこうなんですよ、鞍寅は。さて……ごめんくださーい、生きてますかー?」 声はかけながらも、当たり前のように無遠慮に戸をガラガラ開けて入り込んでいく瀬々。 「ウワ⁈」 胡兵は突如目に飛び込んできた光景に思わず声を上げてしまう。玄関先で、雑巾を片手に突っ伏して倒れている家主……。 「こんなところで寝ていたら、風邪ひきますよ」 この有様にも瀬々は慣れきっている。跪き、家主を起こそうとその華奢な手腕で容赦なく揺さぶる。眠って脱力しているように見えはするのに、少なくとも雑巾は、その手に固く握りしめられている。 少し経って、家主は瀬々に支えられながら、ようやくゆっくりと起き上がる。長く垂れた三つ編みの黒髪が、猫のしっぽのようにしなやかに揺れた。 「ん……あー危なかった……死ぬとこだった……」 「どんな切羽詰まった夢見てるんです。はい、これ今回のお土産です」 家主は項垂れたまま、瀬々から風呂敷包を受け取った。包を片腕で抱えて、もう片手でぽりぽりと頭を掻きながら、 「毎度どうも」 といかにも寝覚め直後らしい低い声で言う。ようやっと、その瞼が開いたように見えた。 鱗が「見聞を広める機会に」と寄越した意図をよくわかっていない胡兵。瀬々から聞いた前情報も、役に立つはずのないままここまで来てしまった。だらしなさの影に底知れぬ圧を感じ取りながら、瀬々の後ろで静かに様子を伺う。 「それ、隣国の焼き菓子です。中身は餡子と聞いていますから、きっと楸さんのお口に合うかと」 「ふぅん……って、あんたまた一人でそんな遠くへ……」 「無事に帰ったのだからお咎めなしですよ! 言いつけ通り、ちゃんとメンテナンスに通ってるでしょう」 「……まあ……うん」 楸、と呼ばれた家主の男は首の後ろの辺りをぐりぐり指で押しながら、この静かな家では騒がしくさえある瀬々に、気怠げに応対した。 顔の右半分を隠すほどの長い前髪が、陰気な雰囲気に拍車をかける。夏というのにデニム地の羽織を着て、見るからに重苦しい。胡兵はしばらくこの楸という人間のことを掴みかねていた。 「それと、こちらの少年は鱗ちゃんのお使いの胡兵くんです」 「お嬢のお使い?」 彼もまた、鱗とは知り合いのようだった。 「見聞を広めるために少し遠出してるんです」 「はァん……なるほどねぇ。胡兵くん、覚えた」 楸は二人を客間に促しながら、胡兵の方をチラリと見た。黒い睫毛の奥に黒い瞳、そしてその下には寝不足由来の隈。寝起き、力無く見遣っただけなのに、胡兵には威圧感が伝わる。 廊下を進み、瀬々と胡兵は片付けられた、というよりあまり使われていなさそうな和室に通される。 瀬々は鞄を部屋の隅に置き、部屋中央に置かれた低い長机の横に座って、積まれた本のうち一冊を広げてくつろぎ始める。いつもそうしている、と言った風な迷いない動作。 楸は一度客間から出て、湯呑みに茶を淹れて戻ってきた。 「ああ――胡兵くんがいるからか」 楸の行動を一瞬不思議に思った瀬々は、そんな独り言を漏らした。普段、瀬々ひとりの訪問時にはここまでの接待はしない。いわゆるセルフサービスである。 楸は長机に湯呑みを三つ置き、瀬々と卓を挟んで向かい側に腰掛けた。 「それで、胡兵くんは夢見鳥を探して橙城にやってたんですって。浪漫的です」 瀬々は本に視線を落としたまま、楸と胡兵の橋渡しをする。 「……ゆめみどりぃ? 都市伝説の?」 胡兵はこれまで橙城地区で色々な人にその話を聞いたが、記憶が正しければ、「都市伝説」と表現したのは楸が初めてだ。 「いや、見つけたら幸せになれるって聞いたからさ」 突っ立ったままの胡兵がやっと口を開くと、 「なんだ御伽話のほうか、見た目以上に子供だなぁ」 と楸は嗤った。自分にとっては重要な夢なのに、鱗にも瀬々にも楸にも侮られる……。という、やりきれなさを胡兵は抱えきれずに、 「どいつもこいつもオレの夢を馬鹿にしやがって」 と啖呵を切り始めた。 「鱗さんなんか、お医者のお嬢様なんだから……泥水啜って飢えをしのぐ惨めさなんか知らないよな! 幸せになりたい気持ちがわからないのは幸せだからだろッ!」 楸は黙って胡兵の言い分を聞いている。彼の様子からは、怒っているとも憐んでいるとも読み取れない。あるいは、単純にまだ眠いだけかもしれない。そんな表情筋の死んだ顔をしていた。 瀬々はその横で少し困った顔をして、 「胡兵くん、鱗ちゃんから預かってる手紙を渡して……」 と促した。 「あ、そうだった」 胡兵は上着のポケットから封筒を取り出し、楸に手渡す。 ――また面倒ごとじゃないだろうな。 楸は無言で素早く奪うように受け取り、開いて目を通すや否や、あからさまに顔を顰めた。 「なにかまずいことでも……?」 おずおずと顔色を伺いながら聞く瀬々に、楸はなんの遠慮もなしに即答した。 「クッソ不味い、吐きそう」 「そんなに?」 飲みかけた茶を吹き出しそうになりながら聞き返す瀬々に、さらに楸は、 「用が済んだらすぐ帰れって言おうと思ったばかりなのに」 鱗からの手紙には、「かくかくしかじかで、胡兵をそちらに向かわせるのでしばらく教育お願いします!」といった内容の事が書かれていた。筆圧高めの、少し急いだような筆跡で。 「あ〜ンの小娘エェ……人ン家を託児所みたいに」 瀬々も胡兵もここで初めて、「あ、この人やっと目を覚ました」と感じた。 楸は頭を抱えてため息をつく。手紙を机に置き、しばらく見つめていた。人差し指の先で、机上を小突き一定のリズムを刻みながら。 ――仕方ないか、このまま突き返してもお嬢が可哀想だし。 これから数日ここで過ごすのだと、瀬々が噛み砕いて説明すると、胡兵は、 「え〜この人なんか怖いし、鱗さんのところでなまぬるい生活してた〜い……」 と、ぐねぐね体を揺らして文句を言った。 「ドクズかお前は……少しはあの子の意図を汲め」 楸はそれまでよりさらに少しずつ語気を荒らげながら、 「お前、想像力も洞察力もないし知識も知恵もないんだろう。だから見聞を広めろと旅なんかさせられてんだ」 と鱗の思惑を代弁した。 「初対面でそこまで言うかよ」 胡兵は言い返す。瀬々も内心、「珍しくよく喋るな」と感じていた。そして先程の胡兵の言葉に返す様に、 「お前にはあの子が幸せに見えたか。お前の求める幸福の……たかが知れたな」 楸は、立ったままの胡兵に目線も遣らない。 「オレのことなんかどうせオメーにも理解できねぇさ」 口を尖らせる胡兵。楸は胡兵に出したはずの茶まで飲み干してしまいながら、さらに胡兵を戒める。 「お前だけが不幸なんじゃない。幸せになりたいのもお前だけじゃない。お前のちっさい杓子定規で……」 ――お前自身が他人を不幸にしている可能性について考えたことはないのか? 胡兵の頭にまた幻聴が響く。楸の台詞に続かない内容だから、やはり明らかに幻聴なのだとはわかる。 この様子を先程見たばかりの瀬々は胡兵を庇って、 「楸さんったらお手柔らかに。胡兵くんはまだほら、こんなにお若いのですし……」 とフォローした。その間も頭の中に何者かの気配を感じて動揺する胡兵。脂汗が額を滑り落ちる。 「胡兵くん、大丈夫?」 楸の言葉に揺さぶられたのは、胡兵自身だけではなかったのかもしれない―― 「お、おれの……ばかに……するなっ」 「胡兵くん?」 胡兵は戦慄しながら、そしてそれを自ら押さえ込もうとするように腕に力を込める。 「……人間風情がっ!」 瀬々はその様子に目を見開き、唾を呑む。一方、楸は静かに薄ら笑いながら、 「ほーお……それがお前の本性かい」 と、座ったまま下から、突き刺すような鋭い視線で胡兵……を逆撫でする。先ほどまで向けなかった目を、ここでようやく向けたのである。 「あ……頭、割れる!」 瀬々は錯乱する胡兵を見つめながらも、手出しも出来ずに戸惑っていた。 「瀬々、腕」 楸はそんな胡兵の相手はそこそこに、瀬々に本題を切り出す。瀬々が楸宅を訪ねる理由はただ一つ、彼女の義手の整備である。 胡兵はその場にしゃがみこんだと思うと、次第に頭を抱えうずくまり、ついには床に伏してしまう。肩で息をして、小刻みに震えている。 「あ、はい……でも胡兵くんは?」 「寝かしとけ」 楸との付き合いがそこそこ長い瀬々は、彼が冷たいように見えてその実そうでもないことを知っていた。発した言葉はぶっきらぼうでも、声色は違った。きっと大丈夫なんだ、と瀬々は楸の言うとおり、メンテナンスを行う作業場へ向かう。 メンテナンスを行う部屋は、普段楸が絡繰人形を制作している部屋だ。先ほどの客間と違い、畳や机に転々と絵の具の飛沫の跡があったり、彫刻刀を引っ掛けたような傷があったりと、使用感に溢れている。作業台は細長い木製の座卓で、その上には細々とした道具が並んでいる。 「不思議な子ですよね。顔色、悪かったですが大丈夫でしょうか」 「奴の話をするな、気が散る」 瀬々は楸の横でその作業の様子を眺めている。 形も大小もさまざまの傷、強い衝撃を受け止めたかのようなへこみやひびの数々……瀬々によってボロボロにされた〝腕〟を見ながら楸は、 「あんたは……一体どんな生活してたらこんなことに?」 とため息を漏らした。 「ごめんなさい本当に……色々あるんです!」 瀬々は笑いながら、仮初の左手と本物の右手を顔の前に合わせる。楸は瀬々を責めることはせず、詳細な言い訳も求めない。 「もう少し硬い素材に変えようか……すると重さが……」 楸はブツブツと小言を言いながら、メンテナンスを終わらせた。 その間に頭の騒ぎも過ぎ去り、起き上がった胡兵は、客間の縁側から庭園をぼんやり眺めて二人を待っていた。庭には池があり、真ん中に棒の様なものが突き立てられている。日が暮れて暗くなっていたこともあり、縁側に居たままではそれが何なのかはっきり見えなかったが、胡兵はその様子になんとなく既視感を覚えた。 「胡兵くん、もう平気そうですね。少しお待たせしてしまいましたが、そろそろお夕飯にしましょう」 声をかけに来たのは瀬々だった。瀬々は居心地の悪そうな胡兵を励ます様に、笑顔を絶やさず話しかけてくれる。 「この家では、お味噌汁の代わりにお汁粉が出ます」 「ええ……?」 瀬々の嘘か本当かわからない話に乗り切れないまま、囲炉裏のある部屋に着く。 三人揃ったところで、瀬々が「いただきます」と元気に音頭を取った。そしてまもなく、瀬々の言っていたことが本当である事が判明する。 「ゲッッッロ甘ァ!!」 テンションが下がったままの胡兵でも思わず大声を出して咳き込んでしまうような、あまりに毒々しい汁粉。粘り気と粉感のどちらも備えた、暴力的な糖分が喉粘膜にこびりつく。胡兵がちらりと横を見れば、瀬々は平然と大量の白湯で薄めて飲んでいた。 「まったくです……病気になりますよ、楸さん」 「施されてる身で文句を言うな!」 瀬々から聞いていた通り、いやそれ以上の甘党かもしれない。胡兵は平気で原液の汁粉を掻き込む楸に、嘘だろ……とぽつり漏らす。 「何をそんなに生き急いでいるんだか」 「単純に甘いもんが好きなだけだよ」 瀬々と楸の軽妙なトークを、胡兵はなんとも言えずに見ていた。 「まあ……生まれたことは罪、生きることは罰。懲役期間ならなるたけ短い方がいいですし、生温かい毒で緩やかに自らの首を絞めていくのも、ある種甘美な生き様と言えるのかもしれません」 瀬々に対して、一体何を言っているんだ? という視線を向けているのは胡兵だけではなかった。 一晩泊まって翌日。鱗に教育を頼まれたとは言え、楸は特に胡兵に何かを課す事もないまま昼を過ぎた。瀬々は鞍寅を散歩に連れて行ったり、勝手に家の中を掃除したり。楸は障子を開け放した作業部屋に篭ったまま動かない。胡兵はどうしていいかわからず、せめて邪魔にならないよう庭の草をむしっていた。衣食住が足りるようになってから初めて過ごす手持ち無沙汰な時間。胡兵は橙城に来てからこれまでのことを思い出しながら、昨日の楸の言葉の意味を考えていた。 「胡兵、今は正気か?」 不意に楸が胡兵に声を掛ける。 「正気?」 胡兵は少し困惑しながら聞き返した。振り向いた先にある楸の作業部屋には、いろいろな種類の人形が夥しく並べてあるのが見える。不気味だ、と言わんばかりの顔で胡兵はそれらを流し見た。 「ああ、これなァ……ほとんど舶来の、瀬々が持ってきた土産」 手も止めず、作業台に目線を置いたまま楸は胡兵の疑問に答えた。 「いつも慌ただしく行ったり来たりふらふらと……渡り鳥みたいな奴だよ」 昨日のやりとりとは違う、落ち着いた声で瀬々のことを話すのを聞けば、怖い人でもなさそうかもと胡兵は思った。 「それで……正気だったら何なんすか」 胡兵が尋ねると、 「俺がこれから話すことは、たまたま聞いてしまったものと思え」 と前置きして、鱗の父親が軍医であったこと、そして彼が五年前にある事件で亡くなり、その後は鱗の母が心を病んだことなどを端的に話した。 胡兵はそれを聞いて口を噤む。 「胡兵。縁側に上がって、そっから飛び降りてみろ」 唐突な楸の謎の指示に、思わず言いなりになる。 「こうっすか」 胡兵の両足が沓脱石を叩く。重力と体重の板挟みになった足首に、軽い衝撃。 「じゃあ次、屋根に登ってそっから飛び降りろ」 楸は謎の指示を繰り返す。 「はぁ?」 胡兵は眉を顰めて楸の方を睨んだ。 「……高いところから落ちたほうが痛いと思ったか?」 「そりゃあそうでしょ、バカのオレでもわかる」 「振れ幅とか落差とか言う……」 楸は木製の人形に丁寧に絵付けを施しながら、あくまで穏やかに話を続ける。 「まァ……ひとつ、そういう見方もあるだろう。それに禍福は糾える縄の如し……どちらかだけを都合よく貪ることは叶わない、と俺は思いたいよ」 楸の話は、胡兵にとってはかなり言葉足らずで不親切で、しかも知らない単語も多い。頭をフル回転させても、飲み込むまでにかなり時間がかかった。夏の暑さのせいだけではない、嫌な汗が頭を伝うのを感じながら、胡兵は居心地の悪さに拳を握って耐える。 ――オレが皆に馬鹿にされているんだとばかり思っていた。でもオレの方が鱗さんを馬鹿にしていたんだ。 恥じ入るかのように小さく体を屈める胡兵に、楸がまるで慈しむような目を一瞬向けたのを、瀬々だけが影から確と見ていた。 六 元々は楸の祖父が残した住居兼工房である、現玄倉邸。胡兵が鱗によってここへ寄越されてから四日目。 その垣の囲いの外で、家主の楸と鞍寅が一進一退の攻防を繰り広げている。鞍寅は頑なに、この家の敷地に足を踏み入れようとしない。 「鞍寅ァ……俺、おまえに何かしたか? なにか不満なら謝るから仲良くし……」 「ブーーーーッ」 近寄ってきた楸の顔に、思い切り唾を吐きかける鞍寅。動物特有の臭いが顔中に湿気と共に張り付いて、それでも楸は引き攣った笑顔のまま、 「悪いようにはしないから信じてくれよぉ」 と鞍寅の背中にポンと触れ、懐柔しようと試みるも、今度は後ろ足で蹴り飛ばされる始末。物音に、何事かと門から胡兵と瀬々が覗いた。 「あらあら。本当に鞍寅は楸さんに懐きませんねぇ」 「すごい嫌われよう……そういえば瀬々さんて何者なの? 鞍寅も見たことない動物だし……外国によく行くの?」 胡兵が聞くと、 「わたしは物資を売り歩く行商人です。外国といっても、近隣諸国が中心ですが、興味が湧いたら色々行きますよ」 瀬々は一息ついて、続けた。 「鞍寅はわたしの子供の頃からの相棒です。虹華よりもっと北方圏の地域が、もともとの生息地だそうで……」 「はァ〜ダメだダメだ!」 「あ、諦めた!」 胡兵と瀬々が会話する軒先に、鞍寅との仲良し作戦が頓挫しボロボロになった楸が割り入ってくる。 「五年ほど口説き続けてるのに一向に心を開かん。鞍寅のために、庭に小屋まで建てたのに」 「五年も?」 胡兵は熱心だな、と同時にしつこいとも思った。 人間相手には見せなかった柔らかい表情が、もう跡形もなくなっている。 「楸さんと鞍寅が出会ったのがそれくらい前ですからね。わたしはその前に一度、楸さんとお会いしていますが」 「ん……?」 確かにそうなのだが、互いに名乗りもしていないあの時のことを覚えているのか? と楸は疑問に思いつつ、何も聞かなかった。 楸が諸事情で祖父の工房を引き継いで間もない頃、人形制作について迷い戸惑っていた時に、納品先の土産屋で出会したのが最初だった。虹華の絡繰人形が好きだという瀬々は、自らを「つまらんものばかり作る無名の駆け出し」と評する楸の作品に、それは好き勝手に熱い感想を述べた。その時の瀬々の、 「この子は特に、よく見ると若干左右非対称ですが、そこにむしろ親近感を覚えます」 という言葉の意味を知るのはもう少し後の話。 凝り性の楸は自分の技量に不満を持っていて、半端な作品でも世に送り出さなければならないことに抵抗を感じていたのだが、それを知ってか知らずか瀬々は、 「人って誰しも完璧じゃないから、完璧を追い求め憧れるんだと思うんですよ。でも完璧じゃないからこそ不完全なものだって愛せるんじゃないですかね」 と言って、その左右非対称な出来の人形を買って去って行った。 ――一体なにが不完全なのかわからないくらいに、美しい人だ。 楸はその時そう思いもしたが、不完全も受け入れるという選択肢に溜飲を下げたのを覚えている。 「あの時の人形まだ持っていますよ」 瀬々は、ここへ来る道中で胡兵に見せたものとはまた別の、それより少しだけ小さな人形を懐から取り出した。顔の癖がちょっと強いと、胡兵は思った。 「外国人に人気なので、旅先での話題作りに大活躍なんです!」 ――それにやっぱりどことなく似ています、離れて暮らす母が、幼い頃のわたしに贈ってくださった人形に。 瀬々が大事そうに見つめる人形を見遣り、楸は 「その頃のはまだ爺さんの作風に近いなァ……過去のものだし荒削りだけど……」 なんでそんなもんいつまでも持ってんだよ、とでも言いたげな引き攣った顔で言い、 「でも、幸せそうな顔してら……」 と付け足した。 胡兵はそんな二人を和らいだ顔で眺めている。楸のことも、ぶっきらぼうでも怖いとはもう思わない。鱗と瀬々が話すのを見た時にはまだ気が付かなかったが、胡兵は彼らを羨ましく思ったのだ。それは妬みや僻みとは違う、温かな心地の羨ましさ。 玄倉邸に来て五日目の朝、胡兵は橙城の青桐医院へ帰る支度を済ませ、玄関先で見送りを受ける。 「胡兵くん、一人で帰れますか?」 瀬々は眉を下げて聞いたが、 「地図見ながら頑張ってみるよ」 と気丈に答えた胡兵を、橙城を出た時より一回り逞しくなったと感じた。 「あ、そうだ胡兵」 「なに?」 「帰り、お嬢――鱗ちゃんの母さんにこれ持ってけ」 見舞いに行けていないんだ、と楸は胡兵に折り箱を包んだ風呂敷を持たせた。 「ああ……それと瀬々、今何か手頃な〝器〟余ってないかな」 「器、ですか。ちょっと待っててください」 庭先に停めてある荷車の中をガサゴソ漁って、瀬々はいくつかの小物を手に持って戻る。その中から楸は一番小さいもの――指輪を選んで胡兵に持たせた。 「橙城に入ったら急に物騒になるだろう、一応持っておけ」 穢魂のことか、とすぐに悟ったが、こんな指輪がなんの役に立つのだろう? と胡兵は怪訝な顔をする。 「それ、商品なんですけど〜。出世払い……いえ、楸さんにツケときますか。実質タダで差し上げますよ」 瀬々は初め顔を顰めたが、すぐに緩めて言った。 「それと、ついでに胡兵くんの魔脚、読んでおきましょうか?」 魔脚。ここへ来る道中で瀬々が一度口にした謎の言葉。 瀬々がお手玉くらいの大きさの透明な石を胡兵の手に持たせ、その上に右手をかざすと、石は少しずつ白く濁った色に変化した。 「なるほどー……胡兵くんの味方をしてくれるのは鉱物や金属などの素材でしょうか。ご参考まで」 胡兵は瀬々の話を聞きながら不意に楸の方を見たとき、瀬々が魔脚を読む様子を楸がそれまで瀬々を見ていた目とは違う、まるで偽物かと疑うかのような――しかしどこか懐かしむような眼差しで見ていたのに気づいた。それが胡兵には不思議だった。 橙城へ旅立つ胡兵を見送ったあと、瀬々も出立の準備を始める。基本的に興味の赴くままの移動、これからどこに行くのかあてがあるわけではない。 「そういえばここへ来るまでの間、胡兵くんに『幸せってどんな?』と聞いたら、飯と寝床って言ってたんです。彼はご飯も布団もないところから来たのでしょうか」 荷物をまとめ、鞍寅に引かせる荷台に積みながらつぶやく瀬々に楸が答える。 「お嬢の手紙には大体そんなようなことが書いてあった。満たされない人間ほど、思い描く幸せの解像度は低いもんさ」 「……それらは押さえたわけですから、次の野望を見つけられるといいですね……さてと、ではわたしもそろそろ出発します」 お世話になりました、と軽く頭を下げて玄関先を出ていく瀬々。楸は玄関前の化粧柱に寄りかかり、小さく袖を振って送り出した。 艮州境の印であり結界だという、突き立てられた錆刀が見えて、胡兵は一層気を引き締める。 まだ夜になるまでには時間があるが、あの楸でさえ懸念して、お守りみたいに指輪を持たせてきたのだ。しかし、以前のように、空腹で力が出せずにふらふら歩く脚とは違う。なるべく早く青桐医院に戻れるように、脇目も振らずに足を前へ、前へ。 腹が減ったら食べられるものを探して、眠くなったら寝るだけの生活をしていたのに、鱗に出会ってからは毎日が目まぐるしい。胡兵は道中のこの一人の時間を、またこれまでのことを省みるのに費やした。 ――そういえば行きの途中で出会った女の人、生家のことを「居心地の良い家ではなかった」と言っていたし、瀬々さんについて「ふつうの家庭を夢見る」とか言っていたな。 不幸なのも幸せになりたいのもお前だけじゃない。胡兵をそう戒めた楸から聞かされた鱗の話だけでなく、あちらこちらにその手掛かりは散りばめられているのかもしれない、と胡兵は足りない頭で記憶を辿る。 目の前で仲睦まじく話す人々に抱いた気持ちの名前もわかった。白金地区にいた頃は、丸一日誰とも話さない日だってあったのに、今ではその声を聞くのが楽しみな人がいる。 「おかえり胡兵」 胡兵が玄関先の階段を上がる足音を聞いてか、胡兵が扉を開けるとすぐそこで鱗が待っていた。 「ただいま戻りました!」 鱗が想像していたより随分と快活に返事をする胡兵。二人はかつての診察室、今は鱗が普段過ごしている部屋に向かう。鱗は椅子に座り、机に肘をついて胡兵の方を向いた。 「どうだった? 楸さんのところは」 ただ遊んで帰ってきたわけではあるまい、と鱗は胡兵にその感想を訊ねる。胡兵は少し考えてから、気持ち満ち足りた表情で、 「最初は厳しいなって思った……けど、なんか、大事なことを教えてもらった気がするよ」 と答えた。鱗は、ほんの少しだけ瞼を見開いて、一呼吸ほど置いてから胡兵を労った。 「……そっか、得るものがあったなら良かったね」 あとでお礼の手紙を書いて出さないとな、と鱗が考えていると、 「これ! 楸さんが鱗さんの母ちゃんに、なかなか見舞いに行けてないからって」 胡兵が預かってきた包の中身は鱗の母の好物、枇杷だった。余って隅によけてある椅子を引き寄せて座り、なんとなしに胡兵が訊ねた。 「そういえば、鱗さんの母ちゃん、具合はどうなの……」 「あんまり……変わらない、かな。変なこと言うことあるし、相変わらず動く元気ないみたい」 視線を落としながらも差有らぬ顔で答える鱗より、胡兵の方が顔を不安に歪めている。 「アンタは心配しなくていいよ。……聞いてくれてありがと」 鱗は下げた視線を前に戻して、 「アンタちょっと変わったね、よっぽど楸さんの教育が効いたんだ」 と、クスっと笑った。 ――鱗さんの笑顔を初めて見た。ここに来てから数ヶ月経ってやっと…… 想像力も洞察力もない――楸の指摘を思い出し、胡兵はこれまで、鱗の表情も母親のことも何も見ていなかったと内省した。 その晩。風呂から上がった胡兵は、残暑やら何やらで体が熱るのを頗る不快がって、上半身裸のまま鱗の前をうろついていた。鱗は呆れながら咎めるが、胡兵は「だって暑いんだもん!」の一点張り。 最初に来た時は汚れているだけと思っていた胡兵の身体の黒い模様が未だ落ちていないのに気づいた鱗は、胡兵が服を着ていないのをいい事に背中のアザも確認した。 「アンタ、背中のコレ……薄くなってない?」 「マジ? 別に気にしてないけど、無いに越したことはねーよな」 あっけらかんと答える胡兵だが、鱗は訝って首を傾げるのだった。 七 「そういや、アンタその指輪どしたの」 胡兵の親指を指す鱗。そこには、銅板を曲げて作ったように見える、装飾もなく、輝きもしないシンプルな指輪が嵌っている。胡兵は、楸宅を出る時に渡された、と説明した。さらに、 「瀬々さんに、まーぎゃ……? とかいうのを、読まれた……?」 と知らない言葉を発することに戸惑いながら言うと、鱗は顎に片手を当てながら、 「瀬々ちゃんにそんな力があったなんて知らなかったな……ていうか、他人の魔脚を読める人なんているんだ」 とぼそりと呟き、診察台に寄りかかっていた腰を浮かせて、椅子に座り直した。 「ま、楸さんらしいな。そんでアンタの魔脚はなんだって?」 胡兵は瀬々から聞いたままのことを答えた。 「……てことは『金』か。魔脚って、誰でも使えるもんじゃないんだよ。ラッキーだったね」 「でも鱗さん、オレ使い方わかんないよ!」 語気を強めて、頭を抱えながら訴える胡兵。誰も彼も、ちゃんと説明してくれない……。 「あたし教えるのは苦手だからなぁ。穢魂狩りに同行させたげよっか?」 鱗は脚を組んで頬杖をついて、目を虚空で泳がせながら、冗談まじりに言った。 その夜から、胡兵は鱗に連れられて穢魂狩りを見て学ぶことになった。人の子一人いないのに、街灯は一晩中明るいままの夜道。艮州、橙城地区の人は誰一人として、穢魂を恐れ夜遊びなどしない。命にこそ直接は関わらないが、もっと悲惨なことになるからだ。日暮れと共に街は静まり返り、その代わり、燈り続けるガス灯と建物の窓から漏れる明かりは、橙城の名の通り、温もりをはらんだ色が煌めく美しい夜景を描き出す。皮肉にも、それを高台から眺める者がいるとすれば、穢魂くらいなものなのだが。 鱗は周辺の植物などから「精」を得て、器であるメスを通して力に変換して使う、「木」の魔脚の使い手である。 「そんなちっちゃいメス一つで穢魂の頭吹っ飛ばしてたのはその、魔脚の力ってこと?」 胡兵の問いに、鱗は頷いた。 「メスが切り込んだ傷口から魔脚を流し込んで、細胞破壊させてるの」 「えっこわい!」 胡兵は肩を跳ね上げるようにすくめ、正直な感想を漏らす。雑談の間にも、鱗は周囲に意識を巡らせて歩いている。 きっちり等間隔に配置されたガス灯が街中を明るく保つから、夜を歩く人は穢魂のことを知ってなお気が緩んでしまいがちなのだ、と退魔師は皆、慣習として先輩にそう忠告される。一般市民は徹底して夜に出歩かない。だから、不運にも穢魂に心を食われて廃人になるのは、夜の仕事人・退魔師がほとんどだ。 「本当はあたしサポート要員なんだけど、近頃は人手が足りなくて戦闘に駆り出されてるんだ。アンタも戦えるようになったら退魔師になる?」 鱗は少しだけ口角を上げて、しかし目は笑わないまま胡兵をチラリと見て言う。胡兵は何とも答えずに、へらへら苦笑いした。 二人は辺りを見回りながら、虹華帝国一古く立派な、しかし今では廃墟の大聖堂が建つ、坂道の通りを登っていく。緩くはない勾配だが、植え込みを見ればマリーゴールドやコスモスたちが微笑みかける、赤いレンガが敷かれた西洋趣味の漂う道。胡兵はどうしても、初めて通る場所に観光気分を拭いきれない。 「……いるね、あの建物、刑務所の影」 「え、穢魂?」 鱗は右手にメスを構え、穢魂が潜む看守所の角に迫る。 二人の気配を察して、穢魂は雄叫びを上げながら襲いかかってきた。四、五メートルはありそうな巨大なミミズに、これまた巨大な猫の足でも生やしたような見た目のそれは、グネグネと激しく動きながら鋭い爪を振り回す。穢魂というのはなぜこうも、グロテスクと言っても物足りないような姿をしているのか。 胡兵の顔中の筋肉やら神経やらが強張っていく。 「あれじゃ狙いが定まらないな」 一方の鱗は落ち着き払っていて、上着の内側からさらに数本メスを取り出し同時に投げつけた。数本は跳ね返されたが、二本が穢魂の脚に突き刺さる。 「壊死!」 鱗が唱えた呪文と同時に、メスが刺さった前足二本が弾け飛ぶ。 体を支えられなくなった穢魂は、ドッとその場に倒れ込んで残った後ろ足をバタバタ騒がせた。所詮死骸の寄せ集めなのに、それでも死を恐れ拒むのか。 鱗は口を結び眦を決して、暴れる穢魂を見据えた。 「脚消すだけじゃダメだよね。やっぱ心臓……どこ?」 戸惑う鱗に、胡兵が言うには、 「わからんけど頭の方潰せばいいと思う!」 胡兵は別に、ミミズの生態に詳しいわけではない。しかし、昔ミミズをちぎって遊んでいたことがあり、ちぎった後ろ半分が再生しないことは知っていた。つまり、重要な器官はおそらく頭の方にある、と推測したのだ。 胡兵が不意に指輪を意識すると、周囲にエネルギーのようなもの――精の気配を感じた。ゆらりゆらりと自分の方へ寄ってくる、目には見えない何か。意識を集中させて出所を追えば、監獄の鉄格子、どうやらそのあたりから流れてきているようである。胡兵には少し大きくて、親指にしか嵌められなかった指輪――器が、集まってきた精に呼応して小さく拍動する。 「頭って見たまんま前でいいの?!」 鱗の問いかけに、 「鉢巻ついてる方だから、たぶん前ッ……!」 答えながら胡兵は、指輪に導かれるように手を上に掲げた。その動きに伴って穢魂は空中に跳ね上げられ、所々剥がれ抜け落ちた大聖堂の屋根に並び、さらに上へ。 地響きと、地面に叩きつけられて生じた風が、二人を無言で威圧する。しかし穢魂は、血のような液体と肉片を四方八方に撒き散らし、全く原型を留めていなかった。 「……なにそれ……前も後ろもないじゃん……」 突如として目の前に叩きつけられた、地獄の景色に鱗は思わず顔を歪め、唖然とその様子を見ていた。 ――初心者がこんな強力な魔脚を御しきれる? コントロールを覚えさせないといずれ大変なことになるんじゃ……。 鱗はあまりの出来事に、かえって冷静さを保てていた。魔脚のことは謎が多く、修行などによって強くなるものでもないと言われている。だから胡兵がいきなり高威力の攻撃を繰り出したことには然程驚きはしなかった。 驚いているのはむしろ、胡兵本人であった―― 「え? えっ……鱗さん……なにこれ怖い!」 目を丸くして、穢魂の残骸を見たり目を逸らしたりを慌ただしく繰り返す胡兵。その手はぶるぶる震えている。 「ま……わけわかんないけど結果オーライじゃん! やったね!」 怯える胡兵を励ますように、鱗は胡兵の背中をバンと叩いて笑った。時間が経つごとに鱗も恐怖を覚えて、あえて笑うことで心を守ろうとしたのだ。 「死骸はそのうち溶けちゃうし、残ったかすは処理班が片付けてくれるから。行こう、胡兵」 盗みになら慣れていた。多少の暴力や、小さな生き物をいたぶり殺すのだって平気だったはずだ。しかしそんな胡兵も、自分の手に余る恐ろしい力で命を終わらせたことは受けとめきれていない。それが倒すべき対象である穢魂であっても。 その後胡兵は、あの夜のような破壊力を発揮することなく、鱗の読み通りコントロールが出来ずに魔脚をうまく扱えない日が続いた。 八 数ヶ月後。日中は御用聞、夜中は穢魂狩りの日々にも慣れ始めてきた胡兵。 御用聞はあくまで鱗のパシリの一環だ。しかし、気づけば胡兵の顔を覚えた人も増え、街に出れば他人から名前で呼ばれるようにもなっていた。子供のおつかいみたいに扱う人は逆に、減っていた。 そして、空いた時間には魔脚を扱う練習をした。鱗は相変わらず「教えるのは苦手」と言って、胡兵に求められた時だけきわめてざっくりした助言しかしない。それでも胡兵は歩一歩ではあるが、少しずつ少しずつその感覚を掴もうとしている。 決して覚えが良いとは言えない胡兵だが、切り替えと立ち直りが早いのはいいことだ、と鱗はその様子を見守っていた。 二人は夜中の仕事の前に仮眠をとることにしたので、夕飯を従来より早めに済ませるようにしている。鱗は食事を一人分、盆に乗せて階段を上がる。二階で過ごす母親の部屋に運ぶのだ。完食されることはほぼないが、それでも鱗は必ず一人前を盛り付けて渡す。 診察室の長机を、今ではひとつ食卓として、胡兵と囲んだ。 「今日も一日おつかれさま、明日もいい事ありますように! いただきます」 普段より一言も二言も多い、鱗の食前の挨拶。胡兵は笑いながら、なんとなくその理由を聞く。 「母さんが元気だった頃はいつもこう言ってたの。朝ごはんの時は、今日も一日いい事ありますように、いただきます! だよ」 「なんかいいなあ、それ。へへへ、毎日いい事ありますように! いただきます」 胡兵はご飯の時間がとにかく大好きだ――汁粉の原液の強制配給を除いて。お腹を満たすだけでも幸福感を得られるし、なにより人と囲む食事は楽しい。 普段は生真面目な鱗も、食事中はわりとくだらない雑談にも乗ってくれる。というか、鱗のほうからけしかけることもしばしば。 「覚えときな、胡兵。白米には二種類あんの。一つはこの、文字通り、読んで字の如く、白米」 鱗が茶碗を指差して言う。胡兵は首を傾げた。 「もう一つは心の白米。あたしはそれを他人の恋バナや恋愛小説で食べる。山盛り」 「はあ」 食べ進めながらも淡々と持論を展開する鱗に、胡兵は呆然と耳を貸している。 「でもねー……やっぱ、現実は小説より奇なり。小説よりは友達の恋バナのほうがご飯が進むわ」 鱗は味噌汁を飲みながらしみじみ語る。胡兵にはまるで意味がわからない。 「友達って……あ、瀬々さんとか……か。瀬々さんって、そんなに恋バナ持ってくる人なの?」 「無理矢理引き出すのよ! バカね」 ここでバカと言われる筋合いはないぞ! と胡兵は少しムッとした。 「ええ? あっ! ていうか、なんで他人の、なの? 鱗さんは……」 「あたしは……そういう段階終わったの。もういらない。側から見てるのが楽しいの、無責任でいいでしょ?」 胡兵にはやはり、鱗の言う意味はよくわからなかった。無責任っていいんだっけ? 胡兵は一応考えてはみた。 「普段はあまりしないけど――飢えたら、あたしはあの楸さんにだってふっかけるからね」 うわ、と胡兵は引いた。なぜか引いてしまった。悪い、怖い人ではないのは承知したが、それでも積極的に関わりたい! とはまだなりきれない。名を聞いただけで自ずと背筋が伸びてしまう。 ――で、なんの話だっけ…… 胡兵はちみちみと味噌汁を啜った。 今日の献立はカボチャのサラダに根菜の炊き込みご飯。健康志向の鱗が作る料理は全体的にやさしい味だが、胡兵にとっては刺激が少なくてかえって良い。 「やっぱりご飯は一人よりそれ以上がいいよねー。無言で掻き込んでると、作業みたいになっちゃう」 胡兵は鱗のその言葉に、橙城に来る前の生活を思い出した。自分が味わっていた孤独を、全く同じではないにせよ鱗も知っているのだとわかると、俄然親しみがわく。 食べ物と言っていいのかわからないものをたった一人で飲み込むのと、同じものを食べておいしいね、と言い合えるのとでは、雲泥の差がある。 ――コイツは……うちへ来て少しくらいは、人間らしくいられるようになったかな。 鱗は色の薄い味噌汁を飲みながら、胡兵の顔をじっと見た。最初にここへ来た時よりは、顔色もいいし、生き生きしていると鱗には見えた。 ――人類の幸福をつくるのは多分、僅かな逸材だけではなくて集合知の力も大きいと思うんだ。これからもっと人と関わって支え合って、その恩恵を得ていけるように。 その紫水晶のような瞳が、笑うでも睨むでもなく自分を捉えているのに気づいた胡兵。それが何を語っているのか、すぐにはわからなかった。が、 ――自分が幸せじゃなければ、他人の幸せなんて願えない。コイツの幸せを願えるあたしはきっと幸せ。そうとでも思わないと、やってられない。 そっと茶碗と箸を置き、目を伏した鱗は直後、気丈に「ごちそうさま!」と宣言した。その一連の仕草は、無理をして疲れているかのように胡兵の目には映った。 九 橙城地区、大聖堂の前。埃のような細雪がちらついて、レンガの道に吸い込まれていく。 三つ編みに束ねた長い黒髪が、北風に揺らされている。楸はマフラーに首を埋めて肌寒さに震えながら、人を待っていた。今ではもう使われていない、規模が立派なだけの古びた大聖堂を見上げて、眉を顰める。 「ああ、お待たせしてしまいました!」 黒いコートを翻して、小走りで近づいてくるのは瀬々。彼女が連れ歩く鞍寅は人間と比べると大型の動物だし、都会の街中を歩くのは得意ではないから、こういうときは友人――鱗宅で預かってもらっている。少しだけ切らした息が白く、瀬々の顔の前に浮かんだ。 瀬々は別に時間にルーズではないし、遅刻しない。それでも待ち合わせをしたら必ず先に楸が着いている。 「寒くなってきましたね。こんな季節でも楸さん、橙城に出てくることなんてあるんですね」 「都まで出て来ないと手に入らないものが多くて困るよ」 楸は橙城に、人形制作に使う道具や材料を仕入れに来たのだが、その予定を小耳に挟んだ瀬々が行程に便乗したいと言ってきた。断る理由も見当たらず、承諾したのである。 待ち合わせ場所の大聖堂から橙城駅方面に少し歩いた先にある、アーケードの小道。その中で、ひっそりと営まれている人形の専門店が、今日の二人の最初の行き先だ。 「墨波と橙城は近いわけでもないから、たまに来た時に買い込んでおかないと……」 ヘラ、目打ち、鋏にヤスリ、彫刻刀……木目込みも粘土も扱うから、必要な道具が多い。 楸は首をぐりぐり回しながら、気だるげに店内を見回る。そんな様子を、瀬々は心底不思議そうに眺めた。ある程度こだわりを持って人形制作をする割に、作業から離れるといつも、どことなくやる気がなさそうにも見える。 楸は大きな紙袋を引っ提げ、終始にこにこと二人を見ていた店主に会釈をして、店を後にした。 「必要なもの揃ったし、帰るかぁ」 「えーっ、もう帰るんですか? せっかく都に来たんですよ。甘味は食べていかないので?」 寧ろ、瀬々の主な目的はそっちだ。それは楸もわかっている。簡単に思惑に乗るのは癪だが、目の前に甘味を吊るされると有無を言えなくなる楸。何かするのにも理由が要るが、断るのにも正当な理由が要る。 二人はアーケードから出て、さらに駅前方面に歩く。荷物で塞がる楸の両手を気にしながら、瀬々はその斜め後ろを着いていく。小道に入って少し進むと、石造りの倉庫を改装した喫茶店がある。 「わあ、これが橙城名物、苔団子! たしかに苔が生えてるみたいです」 抹茶粉末をまぶした餡団子――通称苔団子は、甘すぎないのが良いのだと人気なのだが、逆に楸には甘さが全然足りない。大好きなはずのスイーツを食べてもその頬を緩めようとしない楸に、瀬々は問うた。 「楸さんって、なんでそこまで病的に甘いものが好きなんです?」 「なんていうか、食べないとものすごく疲れるんだよなァ。甘いもの食べると手っ取り早く回復できるから……」 瀬々は、普段の寝不足と発言内容から多忙を察しているが、余計なことは言うまいと黙った。彼には休憩が必要だ。だからこうして彼の用事に便乗し、遊びに連れ出している。 二人の沈黙の間に、急に飛び込んでくる年配の女性の騒がしい声。 「あらぁ〜ちょっと! 楸くんじゃないの、こんな綺麗なお嫁さん貰って……いつの間に!」 楸も瀬々も口を挟む暇もないまま、女性は遠慮なく畳み掛ける。 「隅におけないわね! いやだわ〜憎いわね〜お似合いよぉ〜!」 瀬々の口の前で、留められた苔団子が怯えている。食べるなら一思いに、食べてくれ! 瀬々はそうしてポカンと固まったまま、楸が何か言い返すだろうと待っていたが、楸はあろうことか彼女の発言に何一つ反応せず、ただ軽い会釈だけした。 女性は先ほどの人形問屋の主人の妻で、楸とは顔見知りである。女性は好き勝手喋り倒した後、奥の席の方へ消えていった。 「なぜ否定しなかったんです?!」 瀬々が問い詰めると、 「他人の口に戸は建てられん……それに何か言ったって誰も俺の話聞かんし。噂も七十五日、いずれ消えていく」 さらさらと語られる、虚しい諦めの言葉の数々。楸はそうやって、ノイズを受け流すことで自分を守る。好きに言わせて、相手の気が済むんなら誤解されたってそれでいい。理解も共感も期待しない。 瀬々は過去の楸との会話などを思い出し、その言い分に納得させられてしまった。 薄暗い店内を柔らかく照らす燈が、楸の寂寞たる横顔の向こうで揺れる。 瀬々は、彼が口も表情も微動だにせず、「あなたの発言は聞きました」という合図に過ぎない会釈をした、その様子を脳内で再生した。 楸は否定こそしていないが、まったく肯定もしていない。 瀬々は目の前のカップを覗き込んだ。ブラックコーヒーに映った自分の目を見て、なんて顔してるの、と深く息をつく。 「はあ……じゃあ、今日は楸さんのお嫁さんという体でデートしてもいいです?」 「それはイヤだ」 瀬々の冗談に楸は鼻を鳴らして笑う。なんでですか! と瀬々も笑って、強めに楸の肩を押し叩いた。 瀬々は楸の、精悍な顔立ちやら軽やかで耳心地良い声やらよりなによりも、温かくも確実に苦味を含む、その観念的なものに興味が尽きない。多くを語らないからこそ、彼が何を見ているのか知りたくなる。 喫茶店を後にして、今度こそ帰るのかな、と瀬々が楸の方を伺う。楸はなにも言わずに、しかし目的を持った確かな足取りでどこかへ向かって歩く。墨波へ戻る汽車の停まる駅の方でも、鞍寅を預けた青桐医院の方でもない。瀬々は疑問に思いつつも、黙って従った。 甘味が物足りなかった楸は途中で串団子を買い足して、またしばらく歩いた。そして、二人は街外れの大きな公園に着いた。 とうに葉を落とした木々が、青で塗りつぶしたような寒空に罅を描いている。小さな噴水を越えて奥には大きな池が広がる。 「あの中島から見る景色が好きでさ……」 そう呟くと楸は瀬々の左手を取って、池に浮かぶ小舟へと誘った。「景色が好きだから」そんな簡単な理由で人の手を引いて行く。そんな少年性のようなものを楸から感じたのは、瀬々にとって初めてかもしれない。 あまりに静か。虫の声、鳥の囀り、風が水面や草木を揺らす音と、枯れ葉を踏む足音。彼らが喋らない限り、聞こえるのはそう言ったものだけ。 少しの波と、櫂の動きで揺れる水面を眺めながら、ゆっくりゆっくりと楸が指した小さな島へ。 楸といえば、家を訪ねれば大概行き倒れのように眠っていたり、起きていても座って静かに作業をしていることがほとんど。こんなふうに水の抵抗に力を込める手腕など見慣れなくて、瀬々は気もそぞろになる。 漕ぎながら、楸がほんの少しの間瀬々を見つめていたのに、彼女は気づかなかった。 楸は小舟を島の沿岸に寄せ、ロープとフックで舟を固定した。瀬々を先に舟から降ろす。 「わあ。本当だ、確かに良い眺めです」 喧騒の気配は遥か遠い都会のオアシス。見渡せど、人工物は乗ってきた小舟くらいなもの。 楸は島の中央に横たわる大きな丸太に腰掛け、ふわりと空を見上げた。 「好きな時に好きな場所で好きな……ものを食べる」 楸は喋りながら、先ほど買い足した串団子の包みを丁寧に開いていく。楸は計算していた。この日の収支がマイナスにならないように、瀬々にボーナスを加算しなければ。 「その時その時をいい気分で過ごせばさ、その積み重ねが人生なら――結果、総じていい人生を送ったことになるだろ?」 「なるほど……そうかもしれません」 瀬々は、楸が唐突に始めるいまいち掴みどころのない話が好きだった。なにかに役立つわけでもないし、驚くほど目新しくもないのに、聞いていると脳が醒めるような心地がする。 買い出しに便乗したこと。先ほどの喫茶店でのやりとり。そして今、彼のお気に入りの場所で同じものを食べようとしていること――瀬々はほんの少しでも、楸が何を思い考えているのか、知りたかった。正面切って聞いてもはぐらかされることはわかりきっている。彼の戯言に乗って探るのがコツなのだ。 「じゃあ……楸さんは今、いい気分ですか?」 瀬々はそう聞きながら、隣に座り、笑顔を作った。別に答えなくてもいいですよ、の合図。 深く切り込んできたりはせず、すぐに戯言とわかってくれることが、楸には嬉しかった。うっすら微笑みながら瀬々に串団子を一本渡して、 「実に……最高に近いんじゃないかな?」 瀬々はその答えを聞き、団子を受け取るときに触れた指先から伝導したかのように、少し体温が上がったのを自覚した。 隣で美味しそうに団子を食べる仕草を、瀬々は横目で見つめた。こんなのは見慣れているはずなのに…… 傾き始めた太陽が背後から、二人の並んだ影を水面まで伸ばす。 ――ここはきっと、誰にも邪魔されない、彼の聖域なんだ…… 自然の音に包まれながら、瀬々は心の奥で小さくつぶやいた。 「それで、あんたの志は果たせそうなのかい」 「なかなか渋いですよ。でも少し……進展に期待できそうなことが」 二人は似たようなペースで団子を食べ進めながら、「戯言」から話題を切り替えた。 「最近ちょっとおもしろい子を……楸さんも見たでしょう?」 「……それがあんたの志となにか関係が?」 「確証はありません、期待の段階です。というか志というほど大層なものではなく……単なる興味と言ってしまえばそういう」 「だったら、あまり深追いするなよ」 楸は瀬々から食べ終えた串をすっと取り上げて、包んで紙袋にしまった。 「心配してくださっているので……?」 瀬々は楸に合わせて立ち上がり、尋ねた。 「そりゃあな」 「それは……心強い!」 忠告を聞く気がないことを示唆する返事に、楸はやっぱりそうだよなぁ、といった呆れた面持ちで、へらへら笑う瀬々を見つめた。 その後、二人と一匹は汽車に乗って墨波地区に戻り、墨波駅からは鞍寅が楸の大荷物を運んでくれた。瀬々の指示なら仕方ない、と鞍寅は鼻息を荒げて玄倉邸へ歩く。 楸と荷物を送り届けて、瀬々はまた流浪の旅に出た。 「志というほど大層なものでは」 ――そうは言うが、余程な野望に違いない。「あの日」以来、頼れるものは何一つないくせに、弱音の一つも吐いてくれない。 楸は縁側に座り込み、思案した。彼女が帰ってきたときに壊れているのが腕だけならば、いい。義手が瀬々の身代わりになるなら何度だって作る。 「首突っ込みたくないけど……同じ轍も踏みたくないんだよなァ……」 同じ轍。瀬々が言っていた「おもしろい子」の内部に潜む禍々しい気配は、楸にとって全く知らないとは言い切れないものだった。再び、あのような甚大な被害を出させてしまったら。 ――よく覚えとけ青二歳、正攻法だけで全勝できるほど人生甘くねえ。猛毒を持って毒を制すくらいの勢いでいけ! 楸はかつて、鱗の父――青桐雷に言われたことをふと思い出した。人生は甘くねえ。だからスイーツが必要なんだ。 ♢ 一方瀬々は、虹華帝国の北西側を出た場所にいた。戦の後か、果てもない荒野に転がる命だったものの間を縫って歩く。 「やっぱり……単に紛争地なんか巡っても出会えませんねぇ」 名もなき怪物――ひとたび現れれば大きな禍を招き、人々を混乱に陥れる、その名を呼ぶことすら憚られる化け物。穢魂とも違う、かつて虹華に現れ、瀬々の左腕を食いちぎったそれを、瀬々はずっと探している。五、六年ほど前の、名もなき怪物との戦いは、たくさんの軍人はじめ宮中にも市民にも多くの被害を及ぼした。 地平線を見据える瀬々の隣で、鞍寅が震える。 「怖いの? 鞍寅」 鞍寅は瀬々の脇腹に、甘えるように顔を擦り付けた。瀬々はその頭を優しく撫でながら、 「大丈夫! わたしはすべてを失ったわけではない、左腕以外は健在だし――」 右手で左腕の義手をトントンと軽く叩いて見せ、 「――その左腕も、いまでは人間のものより強い」 凍空の下に晒された武者たちの屍を一瞥してから、普段他人には見せない鋭い眼差しで地平線をなぞる瀬々に、鞍寅はふんふん! と息で返事をした。 「鞍寅はやきもち焼きなの? 楸さんとも仲良くしてほしいのだけど……」 ――甘え過ぎちゃいけないよ、とでも言いたいのか。そうだ……縋り付きたい気持ちを殺して、差し伸べられた手を振り払ったのはこのわたし。 「いけませんね……」 鞍寅は黒目がちの大きな瞳で瀬々をじっと見つめている。瀬々は笠を目深に被って俯いた。 十 胡兵が橙城に来て二年目の秋。 庭先で空き缶を積んだり倒したりしている胡兵。自分の魔脚の働きを、遠隔でものを動かす力と理解した胡兵は、その精度を高めるために遊びにしか見えない地味な作業を繰り返していた。器である指輪に意識を向け、その親指をくいと上げると、ふわりと一つの缶が浮く。そこから缶を横にスライドさせて、隣の缶の上に積む。手を使えば容易いことだが、魔脚の加減が強すぎても弱すぎても上手くいかない。 胡兵が缶を三つ積んだ。本日五回目の成功。一昨日より昨日、昨日より今日。回数を数えろと鱗に言われて、そうするようにしたのはほんの数日前だが、数値は成長を可視化して、その実感を強めてくれた。 胡兵が院内、いつもの診察室に戻ると、近頃具合が悪化気味の鱗の母――朧の部屋から、激しく何かを叩きつけたような音がした。 本を読んでいた鱗は呆れ半分に本をバタッと閉じて置き、困った顔で、急いで二階へと階段を上がる。部屋に入った途端、空気が変だ、と感じた。 「……母さん!!」 悲鳴に似た、尖った声が一階の胡兵にも届く。それまで朧と関わるのを遠慮していた胡兵も、流石に何事かと二階へ駆け上がった。 ――堕に転じた魔脚を、『禍足』と呼ぶ。 目前の光景に、胡兵の脳裏に浮かんだのはかつて鱗に教えてもらった退魔師の心得の、それだった。それと同時に、さっきまで掴みかけていた魔脚の感覚が、少しわからなくなる。 「胡兵」 鱗は小さな声で呼ぶ。 ――母さんを止めて、 鱗は迷っている。その先を言っていいのかどうか。 制御不能の禍足に突き動かされて、身を捩らせ苦しむ朧。力のこもった手の甲にくっきりと浮かぶ血管と、それをなぞる脂汗。指先が、敷き詰められた堅い木の板に齧り付くように床を掴んでいる。 彼女は耐えているのだ、と鱗にも胡兵にもわかっていた。 朧を包み込む黒い光は刻一刻とその暗さを増して、羽虫の群れのようにざわざわと蠢く。ぐらり身体を大きく揺らしたかと思うと、朧は傍の、鈴の首飾りを手に取った。 それは、以前彼女が使っていた「器」。まずい、と悟った鱗は胡兵の袖をぐいと引いて、部屋の隅へ退がる。 黒い光が弾けるように広がって、瞬間、朧の部屋と廊下を隔てる壁が吹き飛ぶ。 ――かつて一流の退魔師として、橙城の街を守っていた戦士の末路がこれか。 鱗の顔は存外能面の様に静かで、しかしその唇は小刻みに震えている。朧を見つめる目は、まるで冷たい炎がゆらめいているかのように見えた。 「どっ、どうしよう鱗さん」 鱗はすぐにはなにも答えなかった。 まだ迷っている。 この迷いが邪魔だ。 取り返しのつかない結果になっても、この場を切り抜けてから後で考えようか。鱗の思考を手伝うものはもう浮かんでこない。誰かが教えてくれたらいいのに――あの人だったら、どうするだろう……。ほんの刹那の間に、頭の中を無駄な思考ばかりが湧いて埋め尽くしていく。何も見えなくなる前に、決めなくては。 「――胡兵、お願い。母さんを死なせて、あげて」 そう請うた鱗は、胡兵の指示を受けて階段を降り、外で待った。 激しく争う物音も聞こえてこないし、悲鳴だの断末魔だのもない、嘘みたいに静かな時間を過ごす。 ――あんな汚れ仕事を押し付けて、あたし胡兵を犯罪者にしてしまった? 今からでも、代わるべきかな…… 鱗が考えあぐねていると、胡兵に呼ばれた。 胡兵が言うには、器――指輪を使って何かものを動かして、暴れる朧の動きを止めようとしたのだが、指輪が予想と違う働きをした、と。 「黒い光をズオオ〜!! と吸い込んで、あたりの明るさが元に戻って、そしたら、そしたら……鱗さんの母ちゃん、倒れて、動かなくなっちゃった」 そわそわと、肩から先を震わせて訴える胡兵に鱗は、 「ありがと、ごめんね」 と言った。 「あとはあたしがどうにかする」 そもそも「病に臥していた」というのも、鱗が作った表向きの設定。本当は、仕事中に穢魂に食われて心を喪ってしまっていたのだ。 廃人となって回復した例を、少なくとも鱗は見たことも聞いたこともない。鱗は再び二階へ上がり、壊れた壁の向こう側、元寝ていた布団に寝かされた母の横に座った。 鱗の硬く握られた拳が、ゴン、と床を叩いた。肩を震わせ、嗚咽を殺して飲み込んでいる。 その様子を、後ろから着いてきていた胡兵は後ろから見守っていた。 直前の出来事に、もう頭の中は真っ白なのに、真っ白のなかから何かが浮かび上がってくる。脳内のさわぎに戸惑う胡兵に、心臓をなにかで強く突くような感覚が追い討ちをかける。 ――小僧! その身体を我に貸せ! 嫌だ、と答えることすらさせずに、それは胡兵の意識を飲み込んでいく。 「わはははは!」 背後で急に場面不相応な笑い声を発した、胡兵……の姿をした何か、を鱗はばっと振り返って、目を見張る。 ――災厄! 鱗はそう直感した……否、正確には直感ではない。胡兵の背中のアザを図書館で調べた時、その紋様が古くから災厄封じに使われていたことを知った。徐々に背中のアザが薄まっていたのは、災厄の封印が解けかかっていたと言うことか、と鱗は納得した。 「六年ぶりの娑婆の空気! 甘美! どんな花の蜜より甘い、不幸の味だ!」 高らかに笑う、その声と姿は胡兵でも、彼はそういう趣味の言葉は使わない――鱗はその内に隠れた災厄を見据えんと、眦を決する。 「あなたは誰?」 「我に名前などない、我は誰でもない!」 「胡兵はどうなってるの」 鱗は名乗らぬそれを問い詰めていく。 「小僧の意識は奥底に閉じ込めた! ぎゃあぎゃあ五月蝿いやつめ。いつまでもありもしない幻を追って、我がここにいる限り、その幻何度でも噛み潰してやるぞ! ギャハハハハハ!」 「娑婆の空気は六年ぶり、って言ったね。六年前、アナタはどこで何をした?」 鱗はある程度、答えを予想した上で聞いた。そして、概ねその通りのことを、それは答えた。 「いろいろやったけどな、あー、そうだ、帝を殺した! あの時の宿主はこんな市井の小僧なんかじゃなく……あのくらいの立場があると、できることが違ってくる! 今回は……ハズレを引いたなぁ」 ――これが、名もなき怪物か。父さんの命を奪った! 鱗はそこから考える間も無く、上着の内のケースからメスをすばやく取り出して、その切先が「胡兵」の首を掠めた。 細い傷から染み出す血液に、動じることなく怪物は、 「この身体を甚振ったって、傷つくのは小僧だけだぞ」 と挑発的に嗤う。 「胡兵の身体と意識を返しなさいよ!」 鱗は声を荒げる。 「我には肉体がない。なんらかの身体を借りなければ動けない。たとえそれが死体であっても! 故に、返すわけにはいかないのだ!」 ふざけたことを、と鱗は再度メスを握る手に力を込めたが、 「ハッハッハッ……導かれ信じた女に殺させるのも愉快なんだけどなぁ、時期尚早なんだ! お前は後に取っておいてやる!」 怪物は胡兵の身体を奪ったまま、窓から飛び出して街の屋根を伝い、走り逃げていく。 「どこに行く気!?」 鱗はすぐに玄関から外へ出て、その後を追おうとしたが、もう近くにはいなかった。 風を切りながら橙城郊外、北の方角へ向かい、人の気配がなくなったあたりで止まり、振り返って橙城の街を眺める怪物。あれから六年、騒動の爪痕を感じさせない、美しく整った街……。どこにもピントの合わない曇った瞳を泳がせる。 「今度はどうやって掻き回してやろうかね!」 くっくっく、と企む笑みを、すこし離れた崖の上から見ていた女がいた。両手の指を狐の窓のように組んで、その琥珀色の大きな瞳で指の間を覗く。 「見ぃつけた……あれは、胡兵くん……じゃ、ないですねー」 精神世界に追いやられた胡兵は、自分の体の遥か内側から、かつ離れたところから、乗っ取られた自分を見ていた。あの時鱗に小汚いと言われた、身体中の汚れのようなものが濃く、広がっているのに気づいた。毛並みの中の模様みたいに、ブラシか何かで擦ったような汚れは、手の甲や腕や脛にまでも同じように浮かんでいる。 ――なんだろう、縞模様の猫、虎みたいな。 ふわふわした、しかし心地よくない感覚に、胡兵は「地に足がつかない」とはこう言うことか、などと感想を抱く。何もできない上に、未だ状況を把握できていない胡兵は呑気にそんなことを考えていた。 十一 地面に散った枯葉を踏み鳴らしながら走る大きな蹄。背ではその主人が手綱を握っている。夏が過ぎて下がった気温の中を駆け抜けると、歩いているより寒く感じるものだ。瀬々は時折コートの襟を口元に手繰り寄せて、息で暖をとりながら進む。 獣道を抜け、砂利道を抜け、目的の「怪物」のもとへ。 「やっとお会いできましたね」 瀬々は軽やかな身のこなしで、ふわりと鞍寅の背から飛び降りた。 「探したんですよ……美味しかったですか? 私の左腕は」 胡兵の身体を乗っ取った怪物は、自らを睨む瀬々の姿に、六年前の事件を鮮やかに思い出す。 「はああああ……殺すっ、今度こそ殺すっ! 皇ぞ……」 「そういうおつもりで来られるのなら、こちらもそれなりの対応をさせていただきますから」 瀬々は怪物の話を遮って冷たく答えた。 「温室育ちの姫さまなんかに何ができる!」 怪物は胡兵の身体を無遠慮に振り回し、瀬々を狙って叩きつけようとする。瀬々は軽やかに跳ね上がり、攻撃を避けた。勢い余った怪物は、逆にそのまま地面に叩きつけられる。 「うーん……温室育ちなのは否定しませんが、それゆえに、一定の訓練を受けていますよ」 自らの義手の左手首を反対の手で強く掴み、捻り取る。前腕の先に、銃口が露出した。木製の、温かみさえある義肢から覗く、金属質の煌めき。 爆ぜる弾が、激しく空気を叩き飛ばす音が響く。 二発の威嚇射撃。怪物は跳ねるように後方へ退がる。 ――ガワは胡兵くんの身体だから、急所は避けて動きだけ止めたい。 「昇木葉付芯入牡丹先青紅光露……」 瀬々が呪文を呟くと、先程放たれた二発分の銃弾が、命を吹き込まれたように動き出し、激しく火花を散らしながら怪物に飛びかかる。 爆発音。 「あちあち!」 怪物の狼狽にも構わずさらに、爆発音。 咄嗟には避けきれない、広範囲の火花の雨に慌てふためいて見せながら、怪物は退がって瀬々の攻撃を避ける。 怪物も負けじと右手を掲げると、皮膚が塵のようにぱらぱら剥がれ落ちて、鋭い爪を備えた凶獣の前足に姿を変えた。 「ナイアガ……」 瀬々が次の呪文を唱えようとしたとき、怪物は離れて見守る鞍寅の方へ向きを変えて走り寄り、その前足を振り上げた。 「鞍寅!」 瀬々が思わず攻撃を止めて叫ぶ。鞍寅を守ろうと駆け付けた瀬々の脇腹に、急に振り返って方向を変えた怪物の腕が鞭打った。 「ギャハハハハハ! 甘いんだよー‼︎」 ――鞍寅、逃げて……! 瀬々は宙を低く飛んで、藪の中に落ちた。怯えた鞍寅はどこかへ走って逃げてしまう。 「逃がさねーぞ、とどめを刺さないとな〜……」 怪物は瀬々が落ちたあたりの藪の中を手探って、触れたものをそのままずるりと引き上げた。 人のかたちの、人のおもさの、人に似て非なる…… 拾い上げたそれ――瀬々に似せて作られた人形は、怪物を嘲笑う滑稽な顔が描かれた頭をカタカタ震わせ、数秒後、ぱん! と軽い音を立てて弾けた。怪物の顔に、中から飛び出した赤黒い液体がこびりつく。 「なんだ!? ちくしょう、目が!」 目を強く擦る怪物。付着した液体の濃度・粘度が高いのか、擦っても擦っても視界が濁って前が見えず、狼狽える。 「どうだ……驚いたかァ?」 血の色に霞む景色のどこかから聞こえたのは、明らかに瀬々の――女性の声ですらなかった。 「くそ、次は何が出てきたっていうんだ……」 見えないながらにその声の主を探そうとキョロキョロ見回す怪物。藪をかき分ける音を頼りに、ぼんやり人影を捉えた。気を失った本物の瀬々を抱え、怪物を見据えて悠然と立つ、黒い人影。 ――こいつは、あの時の…… 怪物はその気配にまた六年前の騒ぎを回想した。 「生き残っていたか……随臣……」 「あぁ? なんでお前がそんなこと知ってんだ」 人影の正体――楸は、怪物にそう問うておきながら興味なさげに、腕の中に力なく収まる瀬々に苦い表情を向けた。 「戦ったことあるだろう。戦術を変えたか? それとも、鈍になっ……たのか」 怪物は次第に息苦しそうに、ゆっくりと上体を屈めながら、途切れ途切れに言う。 「……皇太弟を殺……したときの……あの鋭さはど……」 「フン、鈍か。まあ一線を退いて尚、物騒なことばかり考えてるほど俺は血生臭くない」 肩で息をする怪物に冷笑を送る楸は、からかうように楽しそうに訊いた。 「苦しいかァ?」 口角をにやりと引き上げて、しかしその目は黒曜石の矢尻の如く、怪物を射殺すように睨み、 「さっきお前が被った血糊なぁ、アレちょっとした毒薬混ざってんだ〜……」 「ふ ざけ……や がっ」 怪物はその場に崩れ、前足の変化も解けた。倒れ込み、そのまま気絶してしまう。 「安心しな、致死性は無い」 楸は瀬々を抱えたまま、倒れた怪物――胡兵の身体に近寄って、その呼吸を確認した。脂汗をかいて、悪夢に唸りながら眠るその顔は、怪物の気配が消えた元の胡兵のものだった。 「守るべきものの為なら、どんなインチキでもしてやるさ……なぁ、青桐先生よ」 独り言のあと、楸は木陰に隠れて一部始終を見ていた鞍寅の無事も確認し、 「鞍寅。おまえのご主人、運んでくれるかい?」 と声をかけた。鞍寅は心配そうに瀬々の顔を覗き込んだが、すぐにくるりと胡兵の方へ歩き、胡兵の身体を起こそうと鼻先で突いた。 「……そっちを運んでくれるのか」 瀬々を任せた楸の隣を、鞍寅は背に乗せた胡兵が落ちないようにゆっくり静かに歩いた。三人と一頭は道中ずっと黙ったまま、橙城に向かう。 「お嬢、いるかい」 青桐医院の玄関の扉を叩くと、鱗が慌てた様子で出迎えた。 「楸さ……胡兵⁉︎ 瀬々ちゃんも」 「二人の手当てを頼みたい、胡兵の方には、悪いが少々毒を盛った。どちらも気絶しているだけ」 楸は端的に説明すると、鱗に促されて診察室へ入る。まず瀬々をベッドに下ろし、鞍寅が背負う胡兵も運び入れた。 街なかで騒ぎや事件の噂を聞かないまま、胡兵が戻ってきたことには安堵しながらも、鱗はこの状況を見て問わずにいられない。 「もしかして胡兵が瀬々さんを?」 楸は首を横に振り、 「正確には『名もなき怪物』の仕業」 と答えた。 「やっぱり……そうなの」 「胡兵が知るはずのないことを口にしていたし、おそらく」 楸は首を回してゴリっと鳴らすと、ひとつ大あくびをして、壁に寄せてある背もたれのある椅子を引き出して掛けた。 鱗は二人が負った細かい傷に、消毒液を塗り絆創膏を貼るなどしていく。 「そんで……アナタ、胡兵に何の毒を盛ったの」 「それは言えない、国家機密」 「それじゃ解毒のしようがない!」 「テキトーにやってくれぇ……あ」 楸は机の上の二人分の遺影に気づいて、眉を顰め、 「お嬢。先生の、お参りさせてもらってもいいかい」 鱗は一瞬調剤の手を止めて、 「母さんにもお願いします」 と答えた。楸はうん、と頷いて、二階の居住スペースの、仏壇のある和室に向かう。 壊れたままの壁の向こうにはまだ、鱗の母が生活していた跡がそのまま残っている。 虹華の民は宗教を嫌うというか、そんなものはないと相手にしたがらない国民性なのに、仏壇はあるのはなぜなのか? 神だの仏だのを考えるのが面倒で、それでも死者を悼む気持ちは表したいからと、遺跡から発掘した前文明の儀式を形だけ再現したのだろうか。眠い目を擦り、ぼんやり考えながら楸は仏壇の前に正座する。 「まあ〜……あとはどうにかしますよ、必ず」 作法通り手を合わせて祈ると同時に、そう呟いた。 階段を降りて、三人のいる診察室へ戻る。二人はまだ眠っていて、鱗は浮かない顔でぼんやり空中を見つめている。 彼女の周りはいつも、傷だらけだ。そしていつしか、彼女を置いて去る。 楸は黙ったまま、何も聞かず、言わなかった。 ♢ 六年前、二七一八年。当時、楸は香淵帝の護衛・側近だった。彼女の単なる話し相手になることも多かった。 帝は凛々しい美貌の持ち主で、普段は寡黙ながら、口を開いた時にはかなりズバズバとものを言う人だった。説明不足といえるほど端的に、結論しか言わない。しかし、呼びつけられてふたりで話をする時は、茶や菓子なんかを味わいながら、地に足のつかない他愛ない話をふわふわ楽しむことも多かった。 そして『あの日』――虹華帝国・皇帝の居城にて。 「御所に向かってきているだと! 衛士らはどうした!」 「中将殿! ここも危険です、どうにも止められない……」 「なんだって」 外から一人の衛兵が走ってきて、中将に状況を伝えた。それを横で聞いていた少将・楸は、 「陛下、発砲許可を……」 と帝に要求した。 「相手は……皇太弟殿下であるぞ」 「殿下を生かしたまま救う手立てがおありですか。それに我々は皇太弟殿下ではなく、帝の随臣ですよ」 淡々と言ってのける、少将に絶句する中将。奥の玉座の女帝・香淵は、 「皇太弟への発砲……攻撃を、許可する」 とあっけなく宣言した。動じているようには見えないが、予断を許さない緊急事態であることくらい周囲の様子でわかる。少将は、 「私は時間を稼ぎます。中将殿は陛下をお連れしてお逃げください、できるだけ遠くへ、早く」 自動小銃を抱えて、皇太弟――の姿を借りた怪物が暴れる現場の方へ歩き出す少将。それを唖然と見ている中将に、 「早く! 多分、そんなに長くは止められません」 ――こいつでも止められないと判断する相手……少将、死ぬ覚悟か。 中将に促され、脱出の準備をする香淵帝が、去り際に少将の方を振り向いて告げた。 「玄倉少将、命令です。殺される前に……殺しなさい」 「御意の通りに」 ――俄然やりやすくなった。しかし、 宮中を破壊し、衛士らをゴミのように払いのけて暴れる皇太弟だったものを前に、目を見開いて現実を疑う。 破壊された宮廷は既に所々で出火していて、雪のように灰が舞い、積もり、空気は熱く乾燥していた。 殺さなければ殺される。止められなければ帝も国民も危険に晒す。 意を決して少将は引き金の指に力を込めた。皇太弟の身体をいくつもの銃弾が容赦なく激しく貫く。が、止まる気配のない、服装だけが高貴な怪物。 ――殿下の体はおそらくもう、生命維持できる状態じゃない。なのにあれは、なんで動いてんだ?! 少将はなにも、自動小銃しか使えないわけでは決してない。人間相手なら大概素手で勝てるし、小型の化け物、普通の穢魂なら軍刀で斬り捨ててしまえばいい。それでも通用しないなら、魔脚がある。しかし、この火と灰の中では、彼には勝ち筋がなかった。 皇太弟のものだった身体は、徐に華奢な美丈夫の面影をすっかりなくし、剥がれ落ちた皮膚の内からは、深い金の毛並みが垣間見える。化け物の力は見た目からの想像を遥かに超えて、その獣のような手で壁を殴ると宮城は瞬く間に瓦礫の山に変わった。 「もうすぐ都の外に出ます。急ぎましょう、陛下」 中将と香淵帝は馬に乗り、橙城の南端のあたりまで来ていた。 美しい街の真ん中あたりから炎や煙の上がるのが見える。大きな音がして、すこし揺れた。 宮城が、崩された。 そして道路を砕く大きな足音がどんどん迫る。 「もう追ってくる!」 中将は香淵帝を庇ったが虚しく、二人ともその場で死亡した。 破壊され、崩れ落ちた宮城の壁に埋もれ、無惨にも足止めされた。根性を振り絞り、折れた脚を引き摺って自力で瓦礫から脱出したものの、とうに怪物は取り逃してしまっていた。 右額から頬にかけて裂けたような傷を負い、頭に受けた衝撃も相まって、目がまわるほどの痛みがびりびり走り続ける。 軍刀を杖代わりに、ところどころに火の手が上がる宮中から離れようと無理やり歩く。一帯にたちこめる鉄臭さと、焼け焦げた皮と肉の臭いが鼻腔を刺す。夥しい灰が、その上を踏むたびに舞い上がり、靴にまとわりつく。 あちらこちらに、兵士の死体が横たわっていた。彼らをどんなに悼んでも悼みきれない、生き残ってしまった悔しさと情けなさで、傷から流れる血に一筋、涙が混じった。 ♢ 「楸さん、楸さん」 診察室の椅子に掛けたまま、楸は眠ってしまっていた。時間も時間だし無理はないけど、と鱗は思いながらも、 「瀬々ちゃん、気がついたよ」 と声をかけて起こした。 十二 ――ここはあの頃のまま、青桐先生が好んだ龍涎香の香りがする……。 かつて楸がよく世話になっていた病院。上官に唆されるままに重大な任務に駆り出されては大怪我をして、手当を受けた後ここでしばらく寝込んでいたこともあった。鱗の父――青桐雷に叩き込まれた教えは数知れない。幼かった鱗も気づけば、一丁前のことを言うようになった。青桐医院に来ると、思い出すことがたくさんある……。 午後十時を過ぎた頃。鱗の呼びかけで、座ったまま居眠りをしていた楸は目を覚ました。ベッドの上で上体を起こし座っている瀬々が苦笑いする。 鱗は診察台の前に置いた愛用の椅子にどかっと座って、頬杖をついた。 「楸さんたらほんと、いつでもどこでも眠れていいよね。ていうか瀬々ちゃんさ、左腕の……手首から先、どうしたの?」 「あっ! 大変、落としてきてしまいました……!」 慌てふためく瀬々。使い方が荒いとはいつも指摘されるが、失くしてきてしまうなんてことは今までになかった。目の前にはその製作者がいるというのに……と、とんだ失態に青ざめる。 「ごめんなさい楸さん!」 「そんなの命に比べりゃ安い」 怒っていないのですか、と瀬々はきょとんと楸を見た。 「無茶をするな、戦うなって言ってもあんた聞かないだろ……」 「さすが……よくわかっていらっしゃる!」 瀬々は一変、にこにこ笑って答えた。この不器用な優しさは、人によっては好意的に映らないだろうが、瀬々はだからこそ優しさと受け止めておきたかった。 「まあ瀬々ちゃんはともかく――」 ――胡兵の意識が戻らないな。 鱗はじめ、三人は泥のように眠る胡兵のほうに注目した。 ♢ あー、身体が動かねえ。目も開かねえ。 オレ、このまま死ぬのかな? 展開の早い人生だったなあ〜、こんなことならもっと好き勝手しとけばよかった、幻の夢見鳥なんて追っかけるより…… ……でもオレ多少頑張ったんじゃねーかな? ちょっと前まではたった一人で貧民街を彷徨っていたんだぜ……何にもできないし何も持っていなかった。 『お前には知識も知恵もない』 前よりは色々なこと見て聞いて知ったよ。 『もっと大きな夢を見ては』 大きいかはわからないけど、目標は見つけたんだ。 『早くこの街に馴染んで生きていけるように』 御用聞のお陰で近所は知り合いだらけだぜ? ……かといって、今死ぬのはなぁ。 満足かというと、そうじゃない…… ――人間はどこまでも欲深くて醜いな! そうなんだよ、明らかに前よりは満ち足りているのに…… オレが思い描いていた幸せって飯と寝床くらいなもんだったのに、一度手に入っちまうとまた次を求めてしまうんだな。 ――そうだ! まだまだ不幸だろ! 望め! 渇望しろ! お前の心の隙間は実に居心地が良い! ……オマエはなにを望んでんだ? ――お前の不幸! お前が不幸に思う限り我はお前の身体を利用できる。身体さえあれば、もっと多くの人間を貶められる! オレにとっての不幸は盲目なことだった。 気づいたらちゃんとそこにあるのに、気づけない、気づこうとしないだけで世界はこんなにも残酷に見える…… ――やめろ! お前はまだ……そうだ夢見鳥を見ていない! そんなにオレを不幸にしたいかよ、 オマエなんかにそんなことさせねー! 夢見鳥を追うのもやめだ! オレの中から出ていけよ、身体を返せ馬鹿野郎!! ♢ 胡兵は夢の中にいた。内に潜む、見えない怪物に出ていけと怒鳴ると、青白く光りながらひらひら漂う、蝶か蛾のような物体が目の前を通り過ぎた。それを目で追っていくと、どこからか集まってきた飛ぶ光は、次第にひと所に群がった。 ――このっ、魂を吸いまわる忌まわしい蟲め! 姿は見えないが、怪物がその光を嫌がっている。胡兵は夢の中で、黙ってその光を眺めていた。 ♢ 「なんか胡兵の様子が変……」 鱗たち三人が見守る。 宿主に否定され居場所を失った黒い何かが、胡兵の頭から溢れ出て空中に飛び散ったと思うと、それらは床に落ちて集まり、ひとつの塊になった。 息を飲む三人。鱗は思わず立ち上がる。 塊は血肉のような色をして、表面はぬるりと鈍く光を反射し、その表面にいくつもの眼球、赤子のように短く細い手足が数本、力なく動いている。 「なにこれ、穢魂……でもなさそうな」 生き物のパーツの集合体のように見えるが、穢魂と違ってぶよぶよと輪郭が定まらず、決まった形があるわけではない。原型もよくわからない。鱗はジリジリ後ろに退き、楸は瀬々を庇うように前に出る。 「っは‼︎」 胡兵は、まるで水中から顔を出したかのように激しい息遣いと共に目を覚ました。周囲の状況を把握する余裕もなく、感想を漏らす。 「うわぁ! 変な夢見た‼︎」 「それよりアンタから変なの出てきたんだけど!」 鱗が指差した、胡兵から出てきたそれは、その場で蠢き喘鳴のような呼吸音を出すのみで、そこから動こうとはしなかった。胡兵はそれが、先ほどの夢の中での会話の相手だと悟り、見据えた。 「……なあ、もう一回話そうぜ。オレ、まだオマエの話を聞いてなかった」 それ――怪物は胡兵の声かけにキョロキョロと、体表のいくつもの眼球を泳がせて、沈黙している。 「あーそっか、身体がないと何もできない――喋れもしないんだっけか」 胡兵は怪物の目の前にしゃがんで、穏やかな顔で続けた。 「そういえば、オマエ……幸不幸の話題の時によく、頭ん中で騒いでたよな」 瀬々と楸はそれを聞いて、顔を見合わせた。なるほどな、と納得したようである。幸不幸の話題、それも他人に何か指摘をされた時、心をざわつかせたのは胡兵本人よりも憑依した怪物の方だったらしい、と。 「オマエさあ、人を不幸にしたい前に、自分が幸せになりたかったんじゃないの? 不幸に囚われてるのは幸せになりたい気持ちの裏返しだろ」 怪物はじわり溶け出したかと思うと、ズルズル地を這って青桐医院の玄関扉の隙間から逃げ出した。 「いやいや……あんなの外に出しちゃまずいでしょ!」 鱗と胡兵は慌てて追いかけると、怪物の行手に人影が見えた。 「誰かいる!」 「おいっ人巻き込むんじゃねーぞ!」 怪物が、その人物の目前に迫る。ガス灯の光に浮かびあがる影は、胡兵にはどこかで見覚えがある形だった。雪や綿のようにふわふわした存在感なのに、その佇まいは地面を押し潰しそうな安定感と重さがある。 「誰しもそれぞれの正義を信じて行動している。見る角度を変えれば、誰しもが誰かにとっては悪となる……」 低い、女の声。ぬるぬる黒光る無言の怪物に、その人物は蔑むような目を向けた。 「だから正義だろうと悪だろうと、貫くべき信条が必要だと思わないか?」 白く豊かな前髪の間から、刺すような鋭い目が光る。まさに蛇に睨まれた蛙のように、その場で動かない怪物。 「秩序も美学も持たないただのけだものなど、この国には必要ない」 情け容赦のない白銀の光の筋が、音もなく怪物を斬る。怪物は、しゅわしゅわ泡のように細かく弾け、虚空に吸い込まれて姿を消した。女は刀を腰の鞘に納めると、先ほどと打って変わって飄々と間延びした声で、 「ごめん、つい……斬ってしまった」 と、その様子を呆然と見ていた胡兵に声をかけた。こてん、と首を傾げて問う。 「もしや君のペットとか、だったり……?」 「いやっそれは違います!」 胡兵は急に話しかけられ、ビクッと肩をすくませた。 「それはよかった、どう見ても災厄の類だったし〜……ああ、思い出した」 胡兵も思い出した。この人は、玄倉邸に向かう途中に出会った、瀬々の師匠―― 「久しぶりだね少年、あの乗車券は役に立ったかな」 ――乗車券? ――白金駅前で盗んだ切符?! 「その節はどうもすみません!!」 冷や汗を流して平謝りする胡兵に、アンタ一体なにしたの、と冷ややかな視線を送る鱗。 「橙城に来て、少しでも人生が豊かになったんなら乗車券も冥利に尽きるね」 女は怒った様子も困った様子もなく、ふふ、と笑いながら言った。それを不気味だとか怪しいだとか思う余裕は今の胡兵には無い。 「こんなところで油売ってる場合じゃないんだった。私はこれで失礼するよ。あ、名前くらい聞いておこうかな〜……ふーん、胡兵くん。覚えた」 女はさっさと行ってしまった。さっさと行ったことに、つい安堵する胡兵。 「はー、どやされるかと思った……」 鱗は呆れた顔で胡兵を一瞥した。 「とりあえず、家戻ろっか」 帰宅した二人は、診察室で待機していた瀬々と楸に出迎えられる。瀬々は表情や発言からは元気そうに見えるが、強く打ち付けられた体にはまだ痛みが残っているようで、ベットに座ったままだった。 「二人とも大丈夫でしたか? アレは……?」 「怪物は……瀬々さんの師匠が消しちゃった。っていうか瀬々さん手! なくなってるじゃん⁉︎」 胡兵はその衝撃的な見た目に思わず悲鳴をあげる。手が無いだけじゃない、その手首の切れ間から、あろうことか銃火器の先端が覗いている! 「……え? あっ! これは、こちらのミスですので……お気になさらず!」 「慣れない人が見たら衝撃的なんだよ、全く」 慌てて胡兵に弁解しようとする瀬々に、楸は胡兵の心境を代弁した。 瀬々が楸宅でメンテナンスしてもらっていたのは義手だったのか、と胡兵は振り返る。ということは、その物騒な義手を作ったの、楸さんだよね? と胡兵は楸に疑わしげな視線を送った。 「胡兵くん、無事に目を覚ましてよかったです、楸さんだって心配してましたからね! ね!」 「余計なこと言うなァ!」 「……はあ、ほんと元に戻ってよかったよ」 鱗は疲れた顔をしているが、ほっとため息をついていつも使っている椅子に掛けた。三人に囲まれて、その眼差しのあたたかさに、胡兵の緊張の糸も解けた。 「それにしても、目が覚めたら覚めたでいろんなところが痛いし、なんか痺れる」 首の切り傷、顔中の擦り傷、全身には細かい火傷、謎の痺れたような感覚。気が緩んで急に蘇る痛み。 「ご、ごめんなさい、急所は外してますからっ!」 ――やっぱり瀬々さんは刺客なのか?! 「ちょ〜っと量……多かったかも?」 ――何の⁉︎ 「マジでごめん!!」 ――鱗さんまで⁉︎ どうやら知らない間に袋叩きにされていたらしい、と胡兵が唖然としていると、 「ア、アンタあの、怪物となんか話してたの? 目を覚ます前……」 と鱗が慌てて話題をすりかえた。それに胡兵はけろりと対応した。 「え、あーなんだっけ、覚えてないや。出てけ! 言ったらなんかブワーって」 的を射ない説明、胡兵の語彙の乏しさに、頭を抱えて呆れる鱗。 「何はともあれ胡兵くん、ありがとうございます。わたしの興味は満たされました。それに、あの怪物……胡兵くんの言葉に最後、涙しているようにも見えました」 逃げ出す前、じわり溶けた怪物の様子を思い出す。 「みんなのおかげだよ! 怪物を退治したのも、オレが無事なのも」 胡兵は親指を立てて、明るく笑って言った。 「夢見鳥はいなかったけど、橙城に出てきて正解だったぜ! この街に恩返しがしたいな。鱗さんみたいな退魔師、目指そうかな〜!」 怪我の手当てをしていた際、やはり胡兵のアザを気にしていた鱗は、再度背中を見せろと胡兵に催促した。見ると、背中にはもうなにも無くなっていた。 「そういえばこのアザなんだかわかった?」 胡兵が訊ねると、 「図書館の本には、災厄封じの呪印に使われていたって書いてあった」 「なんでそんなものが!? でももうなくなったんなら、まあいいかぁ!」 胡兵は笑っていたが、鱗の表情は曇ったままだ。 ――父さんの手記に同じ模様を見つけた。父さんの仕事は、表向きは虹華帝国軍属の医者だったけど、実際はそれ以外の仕事もしていたらしい。詳しいことは国家機密だし聞いていないけど、結構黒い内容の研究だったらしい。そして父さんは、六年前の騒ぎの一番最初の犠牲者。 「もしかしたらあの、名もなき怪物は……すごく悲しい、残酷な経緯で生まれたのかも」 胡兵と瀬々がわいわい喜んでいる中で、鱗の呟きを確と聞き取りながら、何も言わない楸。 『死者を甦らせる方法を探せ』 ――帝の命令の下、研究において人間含め多数の命が消費された。そこで生まれたのがあの怪物だ。六年前、事件のあとは禁域に封印されたはずだが、一体なぜ胡兵に? 翌朝、青桐医院を去る瀬々と楸。鞍寅にごはんをあげながら、瀬々は楸に話しかけた。 「ねえ楸さん。しあわせとしわよせって似てますよね」 「……はあ?」 「人は誰しも幸福を希うのに、絶えず争い貶めあい、常にどこかで誰かが辛酸を舐めている……幸福って、誰かの我慢の上にしか成り立たないのでしょうか?」 楸は考えた。今はまだその答えを知らない。 ♢ 数月後―― 墨波の街のはずれに、白い髪の女が立つ。長い髪の毛先に滴り、白い着物に染み付いた、返り血。長い前髪に陰る顔は、笑っているようで泣いているような、複雑な面持ちだった。 幕間 瀬々の記憶 これはわたしが、楸さんと初めて出会ってから数ヶ月以内の話である。 義手の扱いに少しずつ慣れて来た頃。定期的に整備に来いと言われていたのを思い出し、わたしに新たな腕を与えてくれた職人のいる屋敷に向かう。竹垣から松の木が覗く瓦屋根の家。この絵に描いたような和風建築は彼の母方の祖父の趣味らしい。 そんな玄倉邸の敷地に頑なに入りたがらない、相棒の鞍寅の手綱を門前の姫沙羅に結びつけ待たせておき、開け放された門扉の奥へ進んでいくと、玄関先に先客がいた。 「……それにしてもアンタ、若いのにこんなガラクタ作りで食ってるなんて……道楽よね」 それ以前の会話は聞こえなかったけれど、声の感じからしても客人はこの家の主人――楸さんの仕事を侮辱する意図でその言葉を放ったのだとわたしは思った。踵を返して玄倉邸を去るその先客と目を合わせずにすれ違う。斜め下に逸らした目線を前に戻すと、楸さんがいつもと変わらぬ飄々とした佇まいでこちらを見ていた。 「整備ですか」 直前のことなどなんの気にも留めていないような淡々とした様子で、わたしだけが居た堪れない気でいるのが不思議になってしまう。そんなわたしの態度を妙に思ってか、楸さんは気遣わしげに、しかし黙ったまま手振りでわたしを客間に促した。 「なんか嫌なことでもありました?」 目の前に差し出された湯呑みには、いつもと同じ温かい梅昆布茶。久しぶりに訪ねたって何一つここは変わってない、のに。なぜこんなにも気まずいのか……。 「さっき帰って行ったお客様が、楸さんを馬鹿にしたような……あの、会話が聞こえて」 「ん……? それがなにか……」 楸さんは不思議そうに首を傾げた。しかし彼の表情や声色はまるで凪いだ水面の様に動じず、怒りや悲しみの様なものを一切感じない。 「楸さんはあんなこと言われて、平気なんですか」 「……うーん……」 彼は少し考えながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。 「……知らないから僻むわけでしょ……理解れというほうが酷……ですし」 楸さんはいつも、本当はもっと長いであろう言葉をところどころ切り取ったような話し方をする。全てを話してはくれない。 「道楽……いや……寧ろそのように見せている、というか」 「わたしは楸さんの仕事があんなふうに言われて腹が立ちました」 煮え切らない彼の態度に痺れを切らして、わたしは啖呵を切ってしまう。いつも朗らかに、笑顔を心がけているけど、元来わたしは短気なのだ……。楸さんの前でこんなふうに動揺したことは無かったと思う。でも彼は驚くでもなく、 「それは……どうも」 と返した。 きっと、刃を躱すのが上手い人なんだ。私はそう言うふうに納得しようとしたけれど。 「だって、お人形……動きはちょっと変だけど滑らかで仕掛けはすごいですし! それに絡繰人形だけじゃなくて、こんなに精巧な義手を作ることができるのに――」 せめて取り乱さない楸さんの代わりにと声を尖らすと、不意に彼は笑い出した。 「はは……貴女がそう思ってくれるならそれで十分」 楸さんの破顔を見たのは初めて……でもなぜこんな場面で、と呆気に取られる。 「さて、そろそろその腕の塩梅でも」 わたしたちは立ち上がり、客間から作業部屋へ向かう。 途切れた上腕からその人工の腕を取り外し、預ける。壊れていたり緩んだ部分が無いか確認して、細かい調整をしてもらうのだ。わたしと楸さんは細長い座卓を挟んで座り、わたしは彼が作業をするのを向かい側から眺めた。 体勢が辛かったら壁に寄りかかるなり楽にしてていい、と言われたけれど、整備の様子に興味がある。差し支えなければ近くで見たいと申し出た。 楸さんは細かい作業に集中する時、長い前髪を耳にかけることがある。この時、普段隠している右半分の顔を見てしまった。額から頬にかけて大きな古い傷――凡そ屋敷の中で人形を作っては売る生活では付きそうにない、確かに隠さなければ目立つ傷だ。 そして先ほどの彼の発言を思い返すと、もしや彼はただの人形師では無いのでは、と勘繰ってしまう。 傷を隠す長い前髪もそうだが、寝不足の隈が青黒く染めた目の下も相まって、せっかくの美丈夫が台無しだ……この人はまったくそういう自覚がないように見える。 「あ! ごめ……人に見せるモンではなかった」 彼は慌てて耳にかけた前髪を指で弾き下ろし、右目を隠してしまう。隠すのだって勿体無いのに、でも見た人を驚かせないために傷痕を隠していたんだと、なかなか掴みどころのない楸さんという人物のある一面をひとつ新たに知った気になる。 前髪を下ろしたということは整備は佳境に入ったのだろう、楸さんの方から先ほどの続きを切り出してきた。 「俺だって、例えば……自分にないものを多く持ってる人間が目の前に現れた時、その苦悩を想像できるかと言われたらわからない」 「……だからって――」 悪意をぶつけられるのは違うし、怒ったっていいんじゃないですか。 「人って、自分の行ったことのある場所しか存在しないと信じたい生き物なのかなって思うんですよ……知らないことは別に悪じゃあない……けど……」 楸さんはまた、脳内で言葉の切り貼りをしているのであろう間を開けて、 「いや、会って二、三度のお客さんに一体なんの話をしているんでしょうね、すみません」 と拍子抜けなセリフを続けた。 第一印象と裏腹に温情であることが徐々にわかって、少しだけ好きになった――と同時に、やたらと他人と距離を置きたがり、時に冷たく突き放す様な感じは、少しだけ嫌いになる。 「……けど、なんですか?」 わたしは興味の赴くままに生きることにしてるから。そんなわたしの態度に、楸さんもまた面白がるように口角を上げて、応えてくれる。 「……思考をやめちゃいけないな、と。まあでも……先ほど言った通り、理解しろとは思いません」 他人に対する諦観は、彼の心を守る盾なのかも知れない。 「……と、こんなところでしょうかね、具合どうですか」 楸さんは整備を終えた義手を私の左腕に嵌め直す。わたしは少し動かしてみて、答えた。 「……元の、人体の腕よりずっと良いです。ありがとうございます、楸さん」 「青桐先生の遺した資料のおかげですよ」 鱗ちゃんと二人で無理を言って、今はまだ実用化には至らない能動義手を作ってくれと、楸さんに頼んだのが始まりだった。彼はかなり渋りながらも、色々な方面の有識者から知識を集め、鱗ちゃんのお父様の研究資料を読み解き、わたしの希望したとおりの「戦える腕」を与えてくれた。 「また化け物狩りの旅ですか。無茶しないように」 「化け物狩りばかりしてるわけではありませんよ」 西日の差し込む玄関先。楸さんは欠伸をしながら、私が足をブーツに収めるのを見ていた。 「楸さん。わたし、貴方と同じ場所に立てるとは到底思いませんけど」 化け物然り、興味を持った獲物は逃がさないので。 「貴方のこともっと知りたいし理解したいとも思います」 楸さんの心の盾に、この矛先は届くだろうか? 彼はそれまでの丁寧語を崩し、おそらくは本来の口調で悪戯に笑った。 「は〜……物好きだなァ」