極彩禁域

第二章:夢見鳥

名もなき怪物が胡兵ごひょうの中から消え去って数ヶ月後。胡兵が橙城とうじょうに来て迎える、二回目の冬。初雪が降った翌日、夜が明けて次にやって来たのは、何とも爽やかな朝とは言い難い景色だった。
「あれって穢魂エノヒ? すごい群れだなぁ」
「空の色もおかしくない?」
「気持ち悪〜」
 それまでと違い、昼間から活動を開始している穢魂に橙城市民らは絶えず、不安を口にしている。  昼間なのに空の色は夕焼けを焦がしたような濃い赤で、雲間に踊って見える穢魂の群れの影は、人間にとっては実に気味が悪い。大昔の妖怪絵巻の、百鬼夜行とはこんなだったのかな、などと人々は奇妙さ物珍しさと恐怖の間でさまざまな感想を抱いた。
「例の州境の結界、破れたらしいよ。虹華こうが軍も動き出してるみたい」
「艮ごん州以外でも穢魂被害が出たってほんと?」
市民らの会話に耳をそば立てながら、鱗りんと胡兵は夜でもないのに街を巡回していた。穢魂が活動している以上は、怯える市民のために退魔師は昼間でも休めない。
「恐怖心や不安感で人々の心の隙間が増えたら、被害は増大するだろうね。あたしたちの弱点は、恐怖や不安のやり場がないことだと思うの」
そう語る鱗の眼差しは、意志の強さか気の強さなのか、こういう話をする時は特に目が合うと凍りつくのではないかというほど冷たいと、胡兵はそんな気味がしていた。この前あんなことがあったばかりなのに、立ち直るのが早いと言うか、落ち込む期間が短いと言うか。鱗は構わず、話を続ける。
「その昔、虹華帝国ができる前……かつてこの土地にあった国は、いや、その他全ての文明含め、最低一度は滅びている。未曾有みぞうの危機に、神仏が人類を救わなかったことをあたしたちは知っている。信じ縋すがる先を失ったあたし達は、強大な脅威の前に絶望するしかないの」
当然、学のない胡兵に歴史の話はわからない。その鱗の発言のほとんどが右耳を通って左耳の外へとまっすぐ突き抜けて出て行った。胡兵は口を尖らせながら、地面の枯葉をかき分けて、直径四、五センチほどで長さ十センチ弱くらいの木の枝を選んで拾った。
「知らん知らんダルい話は何もわからん! 眼球裏痒くなる! カミサマホトケサマも無かったら作ればよくねーか。木端こっぱ削って顔描いたら完成! そんでいい事あったらそこからこの木端が神だ。チョロいぜ!」
鱗はここまで会話が成り立たない相手と話したことがなかった。しかし不思議と、それが嫌だとは思わなかった。
「あーあたしもだんだん眼球裏痒くなってきたなぁ。木端彫るかー!」
鱗は悪ノリして、地面から手頃な木の枝を拾って、持ち帰るために懐にしまった。
――後でその木彫りのカミサマとやらを作ろう。大昔の人はきっと、そういうものをお守りって呼んでいたんだ。

上空は穢魂、市中は人々で落ち着かない、不穏な橙城の街中を練り歩く二人。今のところ、穢魂による騒ぎは起こっていないようだが、見かけ次第穢魂を退治しながら進む。雑談をしながらパトロールを続ける。
「木を彫ってそれを神様にするのもいいけどさぁ……アンタが新世界の神になるってのはどう?」
「はー⁉︎ 頭おかしくなったかついに……」
胡兵は思わず吹き出しながら答えた。  
「冗談冗談。穢魂が急増していよいよ退魔師エクソシストの数が足りない。アンタも本腰入れて頑張りなよね!」
 退魔師が昼夜問わず駆り出されるようになれば余計、人材不足に拍車がかかるだろうことは、胡兵にも想像がついた。この国にどれだけの退魔師がいるのかは知らないが。
「結界破れたらしくて、だから艮ごん州外にも派遣されるかもね。そもそも……錆刀さびがたなの結界が張られていたこと自体謎なんだけどね」
「そうそう瀬々さんも意図がわからんって言ってたな」
「誰の仕業かわかんないし、虹華こうが帝国って、それだけじゃなくて。ほら見て。警吏けいり、ほとんど仕事してないのに治安……少なくとも都市部は、ほら――アンタのいた白金地区なんかと比べりゃ、そこまで酷いわけでもないでしょ」
街角の詰所で、だらしなく座りチェスだの将棋だので遊んでいる警吏たちを指して言う鱗。そもそも胡兵を迷子としながら彼らに届けなかったのも、ろくに動いてくれはしないことを鱗だけでなく橙城市民は皆、知っていたからである。
ほんの少し前までは警吏は働かないどころか、市民に対して理不尽な武力行使をすることさえあったが、一応過去の話。
「……わかった! 影の仕事人が夜な夜な粛清してんだ!!」
――胡兵って、年下なんだろうけど、そこまで遠く離れてるとも思えないのに……すっごい子供っぽいこと言うんだよなぁ。
鱗は苦笑いした。
「街中の見回りはそろそろ別の担当が代わるって。あたしたちは……次は、北側郊外へ向かえと」
鱗はどこかから飛んできた式神のようなもの、天書鳩てんしょばとが運んできた手紙を読んで、その内容を胡兵にも伝えた。
了解、と胡兵は鱗に続いて走り出した。

同時刻、橙城から墨波へ向かう道を歩く二人組のうち一人が、大きなくしゃみをした。坊主頭で、年齢は三十代くらいの大柄な男。 そしてもう一人はそれより少し若く、華奢な体躯で身なりだけは女のような格好をしている。が、わざわざ女装している意味が全くわからないほど荒々しい喧嘩腰の口調で、坊主頭を煽あおった。
「なんだテメェ、体調管理も仕事のうちだぜ?」
高い位置で結った金色の長い巻き髪の毛先を指で摘んでいじくりながら歩く女装男。  
「それは抜かりない。それに、体調管理の説教なら閣下にすべきだろう。結界が破られるなどあってはならない……もっとも、ただの怠慢ならお説教で済むが……暗殺とかじゃないといいな」
鼻を啜すすりながら、坊主頭の男は神妙に答えた。
「ハッ、縁起でもねえこと言うなやクソが」
「それを確認しに参るのだ。溜め込んだ大量の書類に判を捺してもらわにゃならんし……」
女装の男が肩にかけている荷物に目を遣りながら、坊主頭は答えた。そして目線を前に戻すと、少し先に物騒な物影が見えた。

鱗と胡兵は艮州と坎かん州の境のあたりまで来ていた。辺りに人気はなく、空の色の気色の悪さは橙城から見たものと変わらない。派手すぎる暖色の空に似合わぬ初冬の肌寒さがなんとも心地悪い。舗装されていない砂利道を歩くと、絶え間なくガチャガチャと石が擦れ合う音が耳に刺さる。その中に、地面の石ではない音が混ざった。
  二人は音の方を見る。道の両サイドの茂みの向こうに、その辺に居そうな動物より大きな黒い影と、電子的な赤い光が数点。 「……なにこれ、穢魂とは、また違いそうな……」
穢魂と違うなら退魔師の管轄じゃないかもしれない。鱗は対応に迷った。まだこちらに気づいていなさそうだと、鱗は胡兵とともに息を殺して様子を伺う。
その少し離れた場所から、坊主頭と女装男は同じものを見ていた。
「おい、抹香まっこう……」
女装男は坊主頭にそう呼びかけ、判断を仰ごうとした。未知のものを見る、緊張に身開いた目。
「まったくなんだと言うんだこんなときに……蚕蛾かいこが、お前は先に墨波へ向かえ。拙者はこの怪物の動向を追う」
「……りょーかい」
蚕蛾と呼ばれた女装男は小さく頷き、抹香から荷物を受け取った。金髪を翻し、走って先を急ぐ。
現場に残った坊主頭・抹香は、やれやれとため息をつき、
「む、どうやら子供が近くにいるな、援軍を呼んで一帯に規制をかけるか。して、それまで一仕事……」
 と、懐から紙切れを出すと空に飛ばす。その紙切れは式神の郵便屋……のようなもの、天書鳩となって橙城方面へ飛んで行った。そして抹香はその場で大柄の体躯をのそりと反らせて伸ばし、胡兵ら二人の近くへ寄る。
 胡兵と鱗の目前に、フシュー、フシュー、と空気を漏らすような息遣いをした化獣バケモノが、フラフラと彷徨さまよい歩く。
「む、君たちは退魔師かね」
 抹香は胡兵に声をかけた。
「うわ……、お、おっちゃんは?」
 胡兵はつい驚いて大声を出してしまいそうになったのを必死に引っ込め、聞き返す。強くて味方ならこの際、なんでもいいと思った。
「拙者はコードネーム『抹香』と申す者。詳しくは言えんが、ええと……手広く慈善事業をしている」
 全てにおいてあやふやな回答をする坊主頭は、子供の目には少々……いや、かなり厳つい見た目をしていて、警戒心を煽る以外の選択肢はない。
 ――これは多分慈善事業なんかじゃないやつだ。
 額に一筋汗が流れて行ったのを感じた胡兵。鱗も同じようなことを考えているのか、困ったようななんとも言えない顔で坊主頭を見ている。
 そうこう話しているうちに、謎の化獣は三人の気配に気付いて、向かってくる。
 鎧でも付けているかのような、騒がしい足音を立てながら近付いてくる化獣。その姿を間近で見ると、確かに今までにみた穢魂と違い、生物の死骸の集合体故の特有の生々しさを感じない。鉄色の板や棒を組み合わせて作った機械やガラクタみたいだ、と三人は共通の感想を抱いた。
 その組み合わせた板のような体の隙間から覗く小さな点状の赤い光が、一層その明るさを強めたと思うと、化獣は胡兵を狙って襲いかかってきた。ヒグマの三倍くらいはありそうな大きさ。四足歩行の体は、豚を彷彿ほうふつとさせるずんぐりむっくりなシルエットだが、顔に当たる部位が無いように見える。背中にはこれまた鉄のような素材感の二対の翼が生えていて、化獣はそのひとつを上方にしならすように振り上げて、胡兵に叩きつけようとした。
 抹香は胡兵を自分の後ろに引き退がらせて、素手で化獣の翼を受け止めて見せた。
「なにはともあれ、慈善事業の一環として助太刀すけだち致す!」
 その筋肉自慢の腕に思い切り力を込め、抹香は掴んだ化獣の翼を捻るように引き倒す。化獣はバランスを崩されよろけ、一時少し後ろに逃げるような動きをした。
「油断なされるな、拙者……本来軍人ゆえ、対人戦は得意でも化け物は専門外、退魔師諸君にはかなわぬ。魔脚とやらも使えん」
 この間、鱗は化獣の外見、動きやその他気配から、正体や傾向を探ろうと観察していた。外見は機械のように見えても、ロボットではなく生き物らしい。鱗は『壊死ネクローシス』の他に、魔脚マーギャを使って、生物相手であれば不鮮明ながら多少の透視のようなことができる。
「大体奴のバイタルは把握した。図体デカいから心臓を狙おう。見たところ多分内臓は一個体分しかなさそうだし、動きから推定した骨格的に肋あばらのスキマは……」
「あ〜長い長い眼球裏痒い。骨なんか折っちゃえばいいだろ! ぶっ飛ばすぞこの羽の生えた豚ァ!!」
 鱗の分析を面倒くさがって遮り、胡兵は周辺から精を呼び集めた。幸いにも、化獣の表面を覆う金属板が胡兵に味方する。親指をくいと立てると、精は魔脚となり、倒れた大きな丸太が一つ浮かび上がり、そしてそれは胡兵の手に合わせて化け物に向かってハンマーのように動いた。
「神の見えざる手‼︎」
 修行中のある日、鱗に頼んで適当に決めさせた呪文を唱える胡兵。それと同時に丸太が化け物の背中を強く打ちつける。丸太側も強い衝撃で繊維に沿って細かく裂け、次は使えなさそうになくなったが、化獣の身体を覆う硬そうな素材は背中から割れて、そこからパラパラ剥がれ落ちていった。
「やった⁉︎」
「いや、表面剥がれただけだな」
 胡兵の仕業に驚く鱗に対して、胡兵のほうが冷静だった。
 パラパラと捲めくれ落ちていく砕けた板の中から、今度は人の形に似た何かが姿を表す。先ほどと違い、外見は生物の質感をしている。人間の成人男性相当の体格。やや項垂うなだれた頭には白髪まじりの髪、そしてその奥に髭を蓄えた顔が確認できる。
 ――え? なんか……父さんに似てる?
 鱗はその姿を思わず凝視ぎょうしした。
「なんだ、正体はおじさんか」
 胡兵は面白くもないのにヘラヘラ笑いながら言った。彼自身にも不思議だった。穢魂やら怪物やらにいちいち怯ひるんでいる暇いとまが正直十分に無かった胡兵も、徐々にその異質な刺激を自覚せざるを得なくなってきている。
「……は……のちっ……きなっ……た…………のに……のお…………な……て……うぉおおおお!」
 そのおじさん風の「何か」は、途切れ途切れに掠れた声で何かを言った後、頭を抱えて雄叫びを上げた。三人は息を呑んでその様子をじっと見ている。ふと、「何か」は鱗の方を注目した。
「……りん……? りん?」
 名前を呼ばれても、鱗は驚かなかった。驚きたくなかった。ちがう、ちがう。冷静であろうと、必死で理性にしがみつく。
「お? 鱗さん有名人か?」
 胡兵の問いかけに、まさかでしょ、と鱗は一蹴する。
「おおきく……いやあまり……かわらんか」
 先ほどより鮮明に、わかる言葉を発する「何か」。
「え?」
 本当に父さんなの? いやそんなわけない、死んだはずだもの、と鱗は疑うスタンスから離れようとしない。
 ――生きているなら会いたかったし、話したかった。でも、そんなわけはない。この化け物は、こちらを動揺させて、あるいは油断させて食い物にする気だ。乗っちゃダメ。感情は理性で縛って飼い慣らすもの。そうだよね、父さん。
 鱗は脳内で自分にそう言い聞かせた。
「そうか、そもそも穢魂は生き物の死骸を依代よりしろに動く。人間のそれも例外ではないと……なんせ拙者も彼のことを知っている……色々と崩れてはいるが、面影は青桐先生そのもの……!」
 抹香もまた、軍医としての鱗の父の姿を知る一人だ。
 彼も、人の死骸を使って動く穢魂は初めて見た。それは鱗も胡兵もそうだった。虹華こうが帝国では、人が死ぬと直ちに火葬する。だから、死骸は穢魂が使える状態ではなくなるはずだった。
「そう、しんだものは……よみがえらない……わたしがここに……あるのは……いのちを……もてあそんだ……ばつ……?」
 鱗の疑う心に応えるかのように、「何か」はそう語った。
「あのおん……なぜ……きんいき……」
 そして彼がその続きを語り出そうとした時、その背後に突然殺気が立つ。刹那、「何か」は首を刎はねられ崩れ落ちた。胴から離れた頭は鈍い音を立てて地面に叩きつけられる。生き物のそれとは少し違う、粘性が高く濃い黒みを帯びた血に似た液体が、飛び散ってボタボタ落ちた。
 そしてその屍しかばねよりも静かに現れた、どこぞで見た白い剣客。落ちた首を一瞥し、鮮やかな手捌きで血振ちぶるいをして、刀を腰の鞘さやに戻す。真一文字に結んだ口元がふと緩んで、
「やあ、また会ったね胡兵くん」
 微笑みながら、ひらひら手を振るどこぞで会った女。胡兵は顔を引き攣らせ、鱗は明白に怪しむ視線で女を捉えた。
 ――敵に戦意はなかったのに、その言葉を遮るように斬り殺したのは……もしや口封じ?
「玄……っいや、錆猫さびねこ!」
 抹香はその姿に動揺した様子で、
「生きていたのなら……どこで何をしていた?」
 と訊きくと、錆猫と呼ばれた女は
「さあ〜、特には」
 ととぼけたように答えた。
「どこで何をしていた、と聞くのは挨拶みたいなものですか。私には至極どうでも良いことなのですが……」
「おまえは決して自由の身ではないぞ。我々と同じ虹華軍の狗いぬ。たとえ主人を見失ったとて、その帰りを信じて待つのが忠犬というもの」
 抹香は女の態度に些いささか苛々した様子を見せた。
「私は猫ですから〜」
「錆猫だけに、てことか。戯言ざれごとも大概にせよ」
「……貴方と戦う気はないですよ? 今の所は」
 ――抹香という名がコードネームなら、錆猫もそうなのかもしれない。
 胡兵と鱗は、抹香と女のやり取りを一歩引いて、しかし気を張り巡らせて見守っていた。
「斬るか斬らないかは、面白いかそうでないかで決める。名もなき怪物の残骸も、今し方斬った青桐先生の残骸も」
 さも、当たり前でしょう? と言いたげな圧のある目で抹香を見つめながら、女は続けた。
「虹華こうがで次に天下を取るのは人間か、はたまた穢魂ら化け物か。これについては、面白いことになるといいなあと思って見てるんです。そして、災厄に取り憑かれ、それに打ち勝った胡兵くん。きみも大変興味深い存在だ……」
 にやにやした笑みで、女は胡兵の方を向いた。目が合うとどうも戸惑う。
「胡兵くん、知っているかい。今の虹華帝国はマリオネットのようなもの……一人の人形師の指先に、命運がかかっている」
 胡兵には政治の話もわからない。というか、なんとなくそういう話なのかな、くらいにしか内容を聞き取れていない。なんの返事もできずにいると、鱗が口を挟んだ。
「香淵こうえん帝は? 為政者は帝のはず……それが誰かに牛耳ぎゅうじられてるってことですか?」
「ん……公に国民に知らされてないけど……帝はとっくに崩御ほうぎょなされた。かの名もなき怪物によって」
 女は事実そのまま答えた。その様子を抹香は頭を抱え、呆れて黙って聞いていた。
「そして、そんな虹華帝国が、その傀儡かいらい人形師の指先さえ失ったら、どうなるかな……って」
「……!」
 抹香はその坊主頭に血管を浮かべ、女を睨んだ。
「……拙者は先を急ぎたい。すまないが少年ら、何かあったら州境に逃げなさい。兵士らを待機させているから」
 胡兵と鱗は頷きながら、走り去る抹香の背中を見送った。抹香は自分らよりたしかに嫌な予感がしているのだ、と二人にはわかった。事態を飲み込みきれていたら、きっと一緒に行ったかもしれない、と鱗は無力さを自覚する。そして虹華を動かす大人たちの間に一体何が起きているのか。胡兵と一緒に首を突っ込めば、目の前で不敵に笑う怪しい女の思う壺だ。鱗は考えあぐねた。
「おや……また来客ですね。胡兵くんたちを尋ねてきたんじゃないかな?」
 女が見た方向に、形は違うが先ほどの羽の生えた豚型の化獣と似たような質感のそれ。形は牛のように見えるが、ハリネズミに似た無数の棘が突き立った化獣。
「じゃあ、私はこの辺で」
 化獣の出現を前に、悠々と立ち去ってしまう女。その背を二人は思わず睨んだ。
「やるしかねーか、抹香さんには置いてかれたんじゃなく、手分けしているんだと考えよーぜ」
「うん」
 胡兵と鱗は化獣の動きに目を見張り、それぞれ戦闘に備え、構えた。

身体を覆う細長い棘もやはり金属製のガラクタで作ったように見え、硬い割には脆もろく、衝撃を与えれば次々に折れていった。機械のパーツを継つぎ接はいだような外の殻を破ると、先ほどと同様に中から人の形の穢魂が姿を現した。さらさらとした赤みの長髪、線の細い骨格。纏まとう衣装は豊富な布を使い、華美な装飾が施された跡があり、鱗らには尊たっとい立場の人間だったように見えた。しかしその体と同様相当に汚れ傷んでいる。胴体には刀傷のほか、何十と銃撃を受けたであろう風穴と、その周囲には酸化して茶ばんだ血液の染み。
「これ、もしかしてまた誰かの遺体からできた穢魂かな」
 鱗は油断を解かず構えたまま相手の出方を伺い、その口からなにか聞き出せないか待った。
「……あなたは誰?」
 静かに佇むばかりの人型穢魂に、鱗は試しに聞いてみた。人型穢魂は首だけを鱗の方へ向け、返事はなく、力なく立ち尽くしているだけだった。しばらく沈黙が続いて、やがて人型穢魂は一筋涙を流して、口をパクパクと動かしたが声を伴わず、鱗にも胡兵にもその言葉は届かない。
 人型穢魂は手招きをして、胡兵を呼んだ。鱗は警戒したが、胡兵は彼に呼ばれるまま近づいた。人型穢魂は胡兵の右手に、研みがいた石を連ねて作ったらしい首飾りを乗せ、渡した。
(行け)
 声はなかったが、胡兵はその唇の動きから察した。傷だらけで、元の顔立ちもわからないほどなのに、胡兵には人型穢魂がとても悲しそうで、また悔しさを噛み締めているかのようにも見えた。一歩、二歩と後退りをする胡兵。少し距離が空いたところで、人型穢魂の中から黒い魔脚マーギャ――禍足カタラが溢れ出て、その全身をまるまる飲み込むと、人型穢魂は禍足と共に蒸発するように跡形もなく消し飛んだ。
 胡兵らは首飾りを眺めた。色とりどりの鮮やかで大小さまざまな石が連ねられていて、動物の角か牙のようなパーツも挟まれている。二人はこれを渡された意味を推し量ろうとしながら、次の行動を考えた。

艮ごん州、錆刀さびがたなの結界が破られる少し前。墨波すみなみ地区・玄倉くろくら邸では、家主の楸ひさぎが一人、作業机に向かっていた。家に上がらず庭先を通って彼のいる部屋に直行する、女。池の真ん中に相変わらず、無骨に突き刺さった錆刀を確認する。
「なんだ、起きていたか愚弟ぐてい」
 白い豊かな髪が少し冷えてきた風にふわふわ揺れる。その声に、目線を遣らないままぼそりと応える楸。彫刻刀とやすりで、木製の小さな部品の形を整えている。
「……何しにきた、椿つばき」
「久々に姉が訪ねたと言うのに、冷たい奴だ」
「用もないのに来ないだろ、さっさと済ませて帰れ」
 楸はまだ、椿の姿をその視界に入れようとしない。落ち着いた所作しょさで、削って出た木屑きくずをこまめに傍かたわらに置いた小さな屑籠くずかごに入れる。椿は構わずに続ける。
「……嫌な予感がするんだ、あの禁域がきな臭い。七百年前、極彩の光と煙に包まれ消滅した文明の遺跡の一つ……あの土地に刻み込まれた禍根かこんは今もなお、人類の過ちを許してはいない」
 現文明の人間は、遺跡から収集したものから当時の世界に何があったのかを推し量ろうとしているところだ。重大な情報ほど、一般の国民の耳に入らないように操作しているはずで、国民の認識を超えた発言は、楸にはすぐにわかる。
 椿がそれを知っているのは良いとしても、こんな民家のど真ん中、開け放された庭先で何を言い出すんだ? と楸はちらりと椿を睨んでまた目を伏す。
「なあ楸よ、お前は穢魂エノヒが悪だと思うか?」
「……用件は?」
「雑談くらいさせろコミュ障め。ときにお前は相変わらず、好きなものから食べる派か?」
 椿はへらへらと薄ら笑いながら、一方的に話を続ける。楸は目の前の作業の手を止めない。椿が縁側から家の中に上がってきて、さらに楸のいる部屋に入り、その影が自分にかかっても、楸はそれを無視しようとした。影が広がり、ばさ、と着物の袖が擦れ上がる音に、楸は漸ようやくその顔を上げた。
「私は変わらず、嫌いなものから消したい派だ」
 ――なるほど、用件はこれか。
 椿の突然の攻撃に、楸はあろうことか抵抗も回避もせず、左の肩から斜め下に袈裟斬けさぎりにされた。
 三つ編みに結った長い黒髪が、肩口でばっさりと断たれ、床に落ちて力無くほどけていく。飛び散った血液の一滴一滴が西日に照らされ、まるで紅玉の宝石箱をひっくり返したよう……。
 作りかけの人形の部品が並ぶ作業台に、容赦なく降りかかる鮮血の雨。さらに、そこに覆い被さるように楸の上体が倒れた。彫刻刀を握ったままの指先、そして作業台天板からとめどなく滴り落ち、畳の筋を伝い染み込み、広がる赤い海。  人形の部品や材料、道具たちだけが、この事件現場で悲鳴をあげた。対して、部屋中に飾られた異邦の人形たちは、不気味なほどに静寂を保ち、この部屋で起きた全てを目撃していた。 「強敵は余力があるうちに倒しておきたいという意味だな。名誉に思っておけ」  椿は刀にこびりついた血液を丁寧に布で拭って、鞘さやに収めた。倒れた楸の頭の上に、返り血を持ち主に返すかのようにその布をぱっと落とす。  再度、池の錆刀を見遣り、そしてその目を上空に向けた。  それを、楸は痛みに耐えながら、まだ生きていると悟られぬよう息を殺して、確しかと見届けた。  ――きな臭いのはおまえだ!  どくどく波打つ感覚が、徐々に遠ざかっていく。

 椿は玄倉邸を後にし、橙城とうじょう方面へ歩き出す。しばらくして、玄倉邸の常連客、瀬々せぜが向かってくるのが見えた。瀬々は椿の姿に気付くと、鞍寅あんとらを引き連れて小走りで駆け寄る。瀬々は椿の白い髪や着物に赤い、撥はねた染みが付いているのを見て、真新しい返り血だ、と直感した。 「先生、その血は……?」 「またお会いしましたね瀬々さま。ゆっくり話したい気持ちも山々ですが、そういうわけにもいかないようです」  椿は瀬々の問いに答えず、空を泳ぐ影にその視線を促した。 「……な、穢魂……!」 「どうやらたった今、艮ごん州の結界が破られたようです。もう穢魂が墨波にまで……安全なところまでお送りしましょうか?」  にこやかに言う呑気のんきな椿に、寧むしろ瀬々の表情はこわばる。『たった今』の状況を、認識するのが早すぎないか? いや、穢魂がここにいるならそう考えて無理ないか? 瀬々はぐるぐる考えながら、
「……いえ、大丈夫です」
 と、やっと答えた。
「まあ心配いりませんか、なんせあなたのことは私が鍛えたのだし。ご無事をお祈りしていますよ」
 椿はさっさと橙城方面へ歩き出してしまう。瀬々の頭にはもう、彼女を追おうなどという発想はすっかり抜け落ちていた。鞍寅だけが、静かに椿の背を見送った。
 空に浮かぶ穢魂は、猛禽もうきんの鳥の体に蜥蜴とかげの脚や尻尾などを足したような外見をしている。瀬々はふー、とため息をついて、面倒臭そうに義手の手首をひねり外し、上に向かって数発連射すると、 「ナイアガラ」
 と唱えた。その呪文の名の通り、大滝のように広がる火花が穢魂の飛ぶ高さよりさらに上から降り注ぎ、数分かけてゆっくりと穢魂を焼き尽くす。
 ――先生が今来た方向には楸さんの家がある。一体なにがあったの?!
 瀬々は鞍寅に乗り、先を急いだ。

数十分後。玄倉邸に、椿、瀬々に続いてまた別の客人が訪れる。ガラガラと過剰に大きな音を立てて、玄関の戸を引く手荒な女装男、蚕蛾かいこが。ミニスカートから伸びる細い脚でどすどすどすどす足音を立てて、庭に沿って縁側から家主を探して各部屋を回る。
「おいおい池の水枯れてんじゃねえかよ……閣下ァ⁉︎ 今日はどこで寝てんすか! 便所か⁉︎ 風呂⁉
︎」  金髪を激しく揺らし、普段楸が人形制作の作業に使っている部屋を覗き込むと。
「な、何者だ貴様‼︎ ここで何をしてる‼︎」
 その大きな声が、自分に向いたことにびく! と肩をすくめて振り向いた瀬々は、今にも泣き出しそうな顔で、必死に楸の傷口を押さえて止血をしている。蚕蛾は倒れたまま動かない楸を見て、ぎょっとたじろぐ。ふと足元を見ると、飛び散った血痕を踏んでしまっていた。
「畜生ちくしょう、一体何が……⁉︎ 閣下起きてください!寝たふりだろ⁉︎
」 「揺すっちゃだめです、まだ出血が!」
 瀬々は両腕を伸ばし、蚕蛾が勢いよく飛びつくのを静止した。引き止められながらも間近に楸の状態を見た蚕蛾は、ほんの少し力を抜いて、
「ま、まだ息はあんのか……まあそう簡単に死ぬようなお方じゃあねえもんな……」
 と落ち着きを取り戻そうと一歩下がった。
「ど、どうしましょう。いつもなら、どんなに死んだように眠っていても声をかければ目を覚ましたのに!」
 狼狽ろうばいする瀬々を見て、蚕蛾もつられてしまいそうになるのを必死に抑え、
 ――慌てんな……落ち着いて考えろ……そもそも閣下の異様なしぶとさの所以ゆえんはなんだ? あ! 一か八か、閣下を水場に連れて行けば……!
「おい女! 貴様の仲間か、あの大鹿おおしかは!」
 蚕蛾は庭でおろおろとこちらを見ている鞍寅を指さす。瀬々はこくりと頷いた。
「あれに乗せて、閣下を最寄りの川か湖かなんかに連れて行けるか」
「そんな動かしたらダメですよ!」
「いいから聞け女! 池の水は枯れて、この周囲の空気も乾燥してきている。水の魔脚マーギャ使いの閣下が、それで持ち堪こたえてるとしたらもうギリギリだ!」
 瀬々は捲まくし立てる蚕蛾の激しい語気に圧倒されながら、その意味を解して鞍寅を縁側に呼びつけた。蚕蛾の手も借りつつ、鞍寅の背に楸を乗せて落ちないように固定し、それを瀬々が支え、走り出す。蚕蛾にそうは言われたが、本当に重傷人をこんなに激しく動かしていいものか、瀬々は恐々とした心地で、傷口だけは動かさぬよう慎重に楸の身体を抱き支える。
「鞍寅! もっと速く走れる⁉︎ 急いで!」
 無理を承知で鞍寅を煽る瀬々。鞍寅もそれに応えようと必死で走る。蚕蛾はその後を追って走った。

「鞍寅は元気そうだったよ、六白」
 橙城郊外、高台の上。崩れた石塀の跡あとに寄りかかり、椿は鞍寅とはまた異なる牛のような動物に話しかけていた。
 ――殿下は少々、丸くなったかな。ま、流石に彼女も大人だし。あの事件で鳥籠から放たれたのもまた、彼女だけではない。多くの狗いぬは飼い主を失って途方に暮れたが、事情も何も聞かされていない殿下にその尻拭いをさせるのも酷こく。だが仮に繋いだ狗どもの手綱は今し方切った。崩れゆく様を眺めるのは愉快だ。そこから新たに何が生まれるのか、実に興味深い。時代が先に進む時、その直前には破壊カタストロフィがつきもの……。
「神を忘れた民たちも、救世主メシアの出現を待っているのではないかな?」
 椿は橙城の街を一望しながら、ふふ、と笑った。

――何かの蹄が砂利道を行くような音が、遠くで聞こえるような気がする……
 揺籠にしてはあまりに乱暴な揺れの中、走馬灯に似た何かが脳内を走っていく。その目で最後に見た、血の幕の向こう側の姉の影に呼び起こされて。

六年前のあの日――香淵こうえん帝と皇太弟殿下と、青桐先生と……多くの人が怪物によって命を落とした日。崩れた宮城きゅうじょうの片隅、かろうじて形を保つ会議所では生き残った虹華こうが兵や年老いた皇族、宮中の使用人らが入り混じって、怪我の手当てや、今後について思案したり話し合ったりなどしていた。
 楸は座って沈黙している。そこに、姉の椿が現れる。
「警護対象を守りきれず死なせて、自分一人生き残るとは恥を知らんのか、父上が泣くぞ」
 椿は冷ややかな目で楸を見下ろした。それを鋭い眼差しで見上げる楸。
「……承知している。椿……いや玄倉大佐、上官命令だ。介錯かいしゃくを……」
「断る」
「命令だっつってんだろ」
 静かながらに声を荒げる楸に、椿は眉一つ動かさずに言う。
「お前がそう言う言い方をするなら私からも『姉として』物申す。お前は天寿を全うするまで、香淵帝の愛した虹華の民のために、身を粉こにして働け」
 どこまでも涼しい顔で、椿はさらに続けて楸を諭さとした。
「今回の事件で虹華軍は甚大な被害を受けた。将官クラスで生き残ったのはお前一人。皇帝、皇太弟を喪い、かの中将も殉職……今、民を脅威から守れるのは誰だ? 人手不足の時に『一身上の都合』で逃げるのかお前は」
 この会議所に集う生き残りを見渡す楸。傍に抹香まっこうと蚕蛾かいこががいる。現時点で楸に次ぐ将校は椿と彼ら。楸はこの三人の戦闘における強さを知っているし、信頼もしているが、確かに頭数が足りない。
「生きている兵士の方が、死んだ皇帝よりずっと価値がある。大昔の革命家の言葉だ。恥くらい忍べるだろお前なら……実を言うと私も警護対象を見失った恥多き警護官だし……」
「……は? それ姫君のことじゃ⁉︎」
 楸は飄々と語る椿の言葉に思わず目を見開く。椿が皇帝の隠し子を離宮で世話する使用人だったということまでは楸も知っている。また、皇帝が娘をひた隠しにする理由も皇帝本人から聞いて知っていた。
「あの場では……逃がす他なかったのだ、それに引き留めてこの場に連れてきてしまっては、帝が殿下との関係を隠し通してきた意味がなくなる」 「だからって、お前しか姫君を知らんのに逃して見失ってどうする!」
 皇女の名も顔も、僅かな世話人にしか明かされていない。また、皇女自身にもその出自を知らせていない。その存在を知るのも軍上層部のさらに一握りの人間だけ。椿のほかのもう一人の世話人は先の騒ぎで命を落とした。
 つまり、椿が皇女を探す気がなければ、誰にも見つけられない。
「私は帝の意思を尊重する。皇女殿下も、そう簡単には死なないくらいには鍛えたし。まあとにかく……次の為政者が決まるまでの間、帝に代わり虹華の安全治安秩序を守ってください。少将改め、大元帥閣下!」
 椿はにこにこと笑顔で圧をかけた。その周りには同様の視線を向ける部下たち……。大怪我でもともと血の気がないのに、さらに青ざめる楸。
 そもそも彼が若くして少将の座に居るのも、本人の意思に反して周囲が押し流した結果である。そもそも人材不足の虹華軍が、わずかな精鋭におんぶに抱っこなのは今に始まった事ではない。
 楸はまたそのパターンか! と憤りを通り越して虚無になった――

 ♢

「あ………………ンのアバズレがぁっっ!!」
 鞍寅の背で揺られながら、気がつくや否や開口一番に罵声を叫ぶ楸。急にガバッと上体を起こして楸自身もバランスを崩し、さらに突然の楸の大声に驚いた鞍寅が立ち止まってしまう。楸は、鞍寅の背から勢いよく投げ出されてしまった。
「楸さん!」
 瀬々が鞍寅にしがみついたまま慌てて手を伸ばすも届かず、軽く傾斜のある河原を楸はごろごろ転がり、果てには水中に落ちた。
「痛って! 冷た! なんだここは⁉︎」
 ばしゃばしゃ騒がしく音を立てながら、水の中に立ち上がる。辺りを見渡し、唖然としている楸に、駆け寄った瀬々は状況を説明した。
「楸さんのことを閣下と呼ぶ、女装の男性? に頼まれて……」
「あ? あー……わかった。さむっ……」
 震えながら岸へ上がり、楸は襟ぐりをすこし捲めくって傷を見た。川に落ちたおかげで、想定より修復が早まる。肌についた血もある程度流れた。深く抉れてはいるものの、出血は止まったようだ。
 かなりの大怪我に見えたのに、もう平気そうに立ち歩いて喋る楸を、瀬々は不思議がりはらはらしながら見ている。
 ただでさえ寒がりの楸は、濡れた全身が冬の空気に冷やされて小刻みに震え上がる。
 瀬々は荷車から、使えそうなものを探す。エキゾチックな柄の大きな布生地で可能な限りの水分を拭ってから、普段瀬々が野営時に使っている愛用の毛布をそっと羽織らせた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけない……畜生、舐めやがってクソババア〜……」
 ――あんな普通のやり方で、俺が死ぬと思ったか。詰めの甘いやつめ。
 アバズレ、クソババアとは一体なんなのか……そんなことは今の瀬々にはどうでもよく、威勢良く罵詈雑言ばりぞうごんを飛ばせるほどの脅威的な回復を見せた楸を見て、安堵を禁じ得ない。
「うっ……生きててよかっ……うああああん!!」
「瀬々! 今抱きついたら痛い!」
 ごめんなさい! と言いつつも、瀬々は離れず、縋り付いて泣いていた。
 まもなく、その場に追いついた蚕蛾。
 玄倉邸で楸の手当てをしていた時、瀬々は必死に涙を堪えていたのを見ていた。命の無事を心から喜び、涙腺を決壊させる瀬々を見て、何処の馬の骨かはまだわからないものの、重責を担う上司を任せて良かったと思ってしまった。蚕蛾はしばらく上司への追及を中止し、二人を見守っていた。
   そうこうしている間に、抹香も追いついてきた。
「閣下! なぜ帯刀していなかったんです! 貴方のおかげで国中大混乱ですよ!」
 抹香は楸に国内の穢魂の出没状況と、胡兵らの前に現れた様子の異なる穢魂などの話を報告したついでに、楸のやる気のなさ――少なくとも、そのように見えることを責めた。
「そーだよ! 俺は生きてるだけじゃマズいんだよ!」
 そうは答えたものの、楸は椿の狙いの一つが州境の結界を破ることだと察したから、敢あえて結界を解いて見せ、自らは死んだふりでもしておこうと思ったのである。絶えず結界を張るのに割かれていた魔脚マーギャは傷の修復に使った。魔脚はあくまで対穢魂用戦闘技術、医療行為であっても人体に向けて使うことは、こんな国でもさすがに違法だが。
 加えて、殺したはずの人間が後から出てくれば、さらに椿の混乱や動揺を煽れるかもしれない。泳がせて悪事がはっきりと露見ろけんすれば処分を下すのも容易になる。
 死んだという設定にしていたって、楸は立場上、座ったままでも寝たままでも兵を動かすことができるのだ。仕事をしない警吏と杜撰ずさんな構造の虹華軍・政府を逆に利用しない手はない。
「ちょうどいいや、瀬々と鞍寅に頼みがある。俺を軍法会議所まで運んでくれるかい」
「お安い御用ですよ!」
 楸は抹香に、会議所宛に天書鳩てんしょばとを飛ばすよう指示した。瀬々は鞍寅の手綱を引いて、荷車に楸ら三人を乗せて走り出す。  荷車の中は、分類不能なほど多種多様の物が詰め込まれていた。蚕蛾は狭い荷車の中で、自分の二倍は幅のある抹香と、身近に迫る異国趣味に圧倒されていた。
「閣下……ちなみに、あの女は何者ですか」
「行商人、遺跡探検家……」
 楸は次の作戦を考えるのに忙しい。蚕蛾の問いに、客観的事実だけを淡々と述べた。

橙城とうじょう地区・虹華こうが帝国軍法会議所、憲兵が立つ門の前。
「ここですよね? 着きましたよ、御三方おさんかた」
 瀬々が荷車の戸を開けると、抹香、蚕蛾が先に出て、半端に断たれた髪を後ろで結い直した楸が続いて降りようとした。が、一瞬止まって、泣き腫らしたあとの瀬々の瞼を親指でひと撫で、
「瀬々、ありがとうな」
 と小さく、瀬々にだけ聞こえるほどの声で囁き、二人の部下に続いて行った。楸は道中荷車の中で、蚕蛾からこれまでの経緯――瀬々が甲斐甲斐しく傷の手当てをしてくれていたことを聞いていた。
「……いえ……」
 彼らの背中を見送りながら、その声が届かずとも、ぽつりと返事をした。
 瀬々はずっと必死だった。ここへ来るまでの道中も、ぽろぽろ泣いてしまうのを抑えられなかった。
 志こころざしを果たすまで待ってほしいと、楸からのある申し出に対する返事を保留にしている。瀬々はその時が来たら、彼と足並みを揃えて生きていくつもりであった。
 ――もし、わたしを置いて先にいなくなられたら……なんて、考えたくなんかなかったのに。
 礼を言われるようなことをしているつもりもなかったから、驚きなのかなんなのか、本人にも自覚できない気持ちでやっと一言返事をした。

楸は、瀬々・鞍寅と別れて会議所門前の憲兵に話をつける抹香らに続く。憲兵らは三人の後ろ姿を見ながら少しざわついた。
「あれ……元帥げんすい閣下だよな? こんなところに出てきて良いんだっけ」
「まー、一大事だからなぁ……暗殺されなきゃ良いんじゃね?」
 香淵帝亡き後、楸はその滅茶苦茶な成り行きで、まるで帝が生きているかのように虹華帝国を維持しなければならなくなった。しかし所詮一国民に過ぎない上、軍政府は人材不足のため、帝のように護衛を山ほど付けるわけにもいかない。だから表向きは退役したように見せかけ、基地にも宮廷にも出入りせず、人畜無害な田舎の庶民を演じることで、その命を国賊などから守っていた。
 墨波に遺された祖父の工房を拠点に人形師のふりをしながら、抹香や蚕蛾が定期的に運んで来る書類仕事は家でこなし、現場仕事については、天書鳩で人員を操作していたのである。

瀬々はその後、鞍寅を引いて橙城の大通りを行き、大聖堂前で見知った影を見て立ち止まった。かつての師匠、そしてかつての使用人。また楸の姉である、椿。瀬々はこれまでの状況から、訊かざるを得ないことを遂に訊いた。
「師匠せんせい……あなた、誰かを斬った?」
「剣客ですから斬ってないというと嘘になりますね〜。まあ、よくある姉弟喧嘩ですよ。ただ、剣は抜いたらどちらかが死ぬまで納めないものです……だから貴女には剣術を教えなかった。退く選択肢も持って欲しいから……」
 椿が話すその背後に、ガラクタや機械の寄せ集めの身体を軋きしませた化獣が現れる。
「おやおや……逃げた方が身のためでは? 私は些か忙しいのでお相手できませんし〜」
「待って!」
 ひらひら蝶みたいに袖そでと裾すそをはためかせて逃げていく椿に瀬々は右手を伸ばし追いかけようとしたが、化獣の戦意を感じ取った瀬々は立ち止まった。フシュー、と継ぎ接ぎの身体の隙間から漏れた息が、冷えた空気に白く浮かびあがる。瀬々が見据えたその化獣は、大きな虎のような印象で、しかし尾が異様に長い、やはり生き物を混ぜたような姿。
「は〜っ。邪魔しないでよ……! 蜂はちの巣にしてあげる!」
 大きな目を鋭く吊り上げて、瀬々は化獣を睨みつけた。

瀬々は左腕の義手から手首を捻り外すと、それを懐にしまった。あの時手首を失くしてきた後、「実は素材を変えたものを既に用意していた」と楸に言われ、瀬々は案外スムーズに左手を取り戻すことができていた。以前より強く硬い分、重みは増したがもう慣れた。
 覗かせた銃口が火を吹いて、情け容赦無く化獣に銃弾を浴びせる。
「スターマイン」
 呪文に合わせて、瀬々が放った無数の銃弾が激しく火花を散らし、化獣めがけて次々ぶつかっていく。発砲時に爆はぜた火薬から得た魔脚で火花はさらに燃え上がり、炎の永久機関は時間を追うごとにその勢いを増していく。身体を形作る幾重いくえもの板金はその激しい攻撃にどんどん剥がされ、中からやはり、人型の穢魂が現れた。赤みを帯びた髪の色は奇くしくも瀬々に似て、高貴で華やかな衣装に身を包んだ女性。
 瀬々はその様子を見ても攻撃を一切緩めず、大聖堂前の広場に火柱が上がるほどに、化獣および人型穢魂を焼き尽くした。燃え盛る炎の中で、人型穢魂は瀬々を見て柔らかな微笑みを浮かべたが、瀬々がそれに気づいた時にはもう遅く、人型穢魂は消し炭になってしまった。
 程なくして、火柱を見た胡兵と鱗が駆けつけた。
「なーんだ瀬々さんの仕業か」
 鱗は周囲を見渡し、そこそこ混乱しているものの大きな被害がないことを確認し、同様の化獣と人型の穢魂を目撃し撃破した情報を交換した。
 その後、瀬々は言葉に詰まりながら、鱗と胡兵に告げた。鞍寅が瀬々に近寄って、慰めるように頬を舐める。
「師匠せんせい……が、楸さんを斬った、多分……だから、追わないと」
 瀬々は鞍寅の首のあたりに腕を回して、撫でながら抱きしめた。笑顔が消えた瀬々の顔を、胡兵は未だ見慣れない。珍しい真剣な顔につられて唇を噛み締めた。

♢

艮ごん州の東の果て。深い森の中、ランダムに突き立った錆刀は奥に進むにつれ、その密度を増す。獣道すらない山奥の崖には板状の巨石が立て掛けられたように佇み、そこに貼られた無数の札には災厄封じの呪印が認したためてある。穢魂の発生源のひとつであり、六つ目の隠された州の入り口でもあるこの場所こそ、虹華帝国の所謂いわゆる禁域と言われるエリアだ。
 椿は巨石の札をひとつ、するりと撫でて後ろを振り返った。道無き道に立てられた錆刀は全て愚弟――楸の仕業だ。国のために散った戦友らが、死してなお虹華帝国を護れるようにと、遺された刀を結界の媒体にしているというのだから、酷薄こくはくなやつだ、と椿はため息をついた。
 幼い頃からこの三つ下の弟は目の上のたん瘤こぶで、椿は何をしても敵わなかった。

 ♢

玄倉くろくら家はもともと剣術道場で、当主は、当然優秀な方――楸に跡を継がせるつもりであった。その必要はないのに対外的にその根拠を示すため、いよいよ後継者を決めると言って、すでに外に働きに出ている椿を呼びつけ、剣を握らせた。椿が十八、楸が十五歳の時だった。
 椿は鬼の気迫で楸に迫る。しかし楸は、姉が当主の座が欲しがっているわけではないのを知っていた。心を見透かす生意気な視線に椿は神経を逆撫でされ、徐々に太刀筋たちすじがぶれていく。楸はそれが剣を交える自分らの他に伝わらないよう立ち回り、まるで五分五分の戦いをしているかのように演じた。道場の端に座って息を飲む門下生らは、その試合に誰かの計算が入り混じっているとは露知らず、ただ魅入っていた。
 試合は椿が勝ったものの、当主は後継を楸に決めると宣言した。椿は予想通りの結果に眉一つ動かさなかったが、周りで見ていた門下生らは熱くなって抗議した。楸は長引いた試合の疲れもあり、かなり呆れた顔をしている。そしてハッ、と笑ったかと思うと、
「待ってください。当主が当主であるうちに、ひとつやりたいことが」
 再度柄つかを握り込み、楸は剣を構えた。
「道場破りってやつを、一度やってみたくてさぁ」
 悪戯いたずらに笑い、敬語を崩す楸。当主――楸ら姉弟の父は、驚くでもなく、楸の挑発に乗った。椿は楸の思惑がわからない。流れる汗を拭いながら、隅に退いた。
 今度の試合の勝敗が決まるのは呆気ないほど早く、楸はけらけら笑いながら道場の門に掛けられた看板の板を外してしまうと、
「玄倉道場はこれで終わりだな? この看板はちゃぶ台にでも改造してやる」
 困惑した当主はどこかへ去り行く楸を引き止めようとするが、楸はニヤニヤとした笑みからふと鋭い一瞥を浴びせ、
「虹華軍からスカウトされてんだ、道場主なんかよりそっちのが俺はやりがいを感じるもんでなぁ」
 と言ってスタスタ門外へ出て行ってしまった。
 当主の拳がわなわなと震えているのを門下生らは見ていた。見くびっていた娘の方がまだ互角だったこと。その疲れの残る直後の試合で呆気なく負かされたこと。自らの敗北と娘に対する見る目のなさを目前に突きつけられ、鋭利な感情が湧き出ては心臓にズブズブと刺さり込んでくる。
 ――揺れるな、動じるな。また負ける、何重にも負けを塗り重ねられる。
 当主は憤懣ふんまんやるかたなく、悔しさをひた隠しにするのに夢中だった。

椿はその一連を側から見て、ひとつしがらみが消えたような心地がした。しかし後ほど当主に呼びつけられ、楸の不遜の分までこっ酷く叱られてしまう。そもそも当主――父親が何か言ってくるときに、弟・楸の話じゃないことなどほとんどないと椿は感じていた。
 ――この父に、私のことは見えているのだろうか。

その後、椿は近くの河原に水浴びに出た。昔から家も道場も窮屈でたまらないから、椿はいつもこうして外で時間を潰した。袴を膝まで捲り上げて、ぱしゃぱしゃと浅い部分を歩く。水の流れをひたすら眺めて頭の中を空っぽにするのが、椿にとって一番落ち着く時間。家を出て、国に仕えるようになってからはまだここに戻ってきていなかったから、すこし懐かしい気がしていた。
 そこにがさごそと水を差す、物音。椿が振り向くと、いつのまにか現れた楸が、どっかり岩場に座って折から串団子を取り出し、食べようとしている。椿が向いたのを見てから楸は岸から話しかけた。
「椿、父さんのこと嫌いだろ」
「……おまえは?」
 椿は答えずに聞き返した。
「あの人なーんも見てないし知らないもんな?」
 楸もまた、答えずに勝手に喋った。団子を頬張って、にやにや笑いながら。
 風に戦そよぐ艶やかな黒髪が、椿にはえらく羨ましかった。黒の方が、深みを感じるし強くも見える。
 ――おまえは一体何を見て何を知っていると言うんだ?
 椿は川から砂利の岸へ上がって、掴んだ袴からばさっと手を離して戻した。座ったままの楸の横を通り過ぎる時、ちらとその方を見遣る。団子串を咥くわえて弄もてあそぶ横顔にはまだ幼さが残っている。そして彼に弄ばれているのは団子串だけではないと、椿は唇を噛んだ。

 ♢

胡兵、鱗と瀬々は、瀬々が最後に見た椿が去っていった方向を追って、東側へ進む。艮州の東隣、震しん州は広範囲に手付かずの森が生い茂る自然豊かな州だ。艮ごん州内でも東に行くほど森が深くなる。
 本当にこっちで合っているのか? と聞きたくなるちょうどその頃、鱗の目に一本の錆刀が西日に煌きらめくのが見えた。
 ――州境にあるものと同じ? ならば、この先に何かがあるのは間違いない。結界を張らねばならないようなものが。
 進めば進むほど、錆刀が増えていく。三人はそれを道標に、獣道ですらない茂みの中、草木を掻き分けて進む。ほとんど会話は無かった。鞍寅に続いて先頭を行く瀬々がいつもと違って無口で、手綱を握る手は力んでいて、それだけで二人は気圧されていた。

  三人が崖に突き当たろうというとき、行先に牛のような生き物と、椿の姿が見えた。
「胡兵くん、きみに盗られた乗車券にも……この呪印がついていたのに気がついていたかい」
 椿は岩戸の札を一つ指して、問いかけた。胡兵はしばらくその意味がわからなかった。
「……貴女が、乗車券を介して胡兵に怪物を仕向けたんですか」
「盗られたんだから、その結果はたまたまだけどね?」
 椿はふふ、と笑って悪びれなく答える。びゅうと吹いた北風に乗ってどこからともなく雪が降り出した。肌寒さのせいか、それとも目の前の不気味な女のせいか。胡兵は腕に立つ鳥肌を思わず撫でる。
 上空に天書鳩てんしよばとが旋回して飛んでいるのに気づいたのは、鞍寅だけだった。

一方、虹華こうが帝国政府軍法会議所。
 こんな堅苦しい場所には相応しくない、普段通りの濃紺の羽織が包む肩で、風を切りながら長い廊下を進む。
 不格好に短く切られた髪は整える暇も与えられず、簡単に後ろでまとめられたまま。加えて、出血は止まっていてもその着物の襟元には一筋の大きな裂け目があり、そこから夥おびただしく血液が染み広がっていて、見る者になにかしらの凄惨な事件を想像させるのに充分すぎる材料が揃っている。
 足元だけは普段から軍靴であった。無惨な姿をしていても、鳴らす足音だけは本物の威厳。
 そうして楸が廊下を通り過ぎていくのを、会議所職員らはざわつきながら見る。見ては目を逸らす。それを繰り返す。
 楸のあとに続く抹香、蚕蛾は緊張した面持ちで、周囲に警戒を払いながら歩いた。彼らが一番大きな会議室に入ると、楸が天書鳩てんしょばとで呼びつけておいた虹華軍の主要部隊長らが既に揃っていて、拳と掌を胸前で合わせる敬礼で迎えた。楸らも同様に敬礼し、一息つく暇もなく本題を切り出す。
「穢魂の他に化獣が出てるのは各位把握済みだな? 天書鳩より、禁域付近で不穏な動きを察知。門扉が開かれれば、穢魂のさらなる凶暴化が予想される」
 楸は各部隊の配置をそれぞれ指示した。各州の国民らの安全保護、宮廷の警護、禁域付近へ向かう部隊、その中でも入り口付近で待機させる隊や救護隊、公務退魔師の配置などを決定した後、楸はやっと一息置いて、一層冷淡に告げた。
「敵の情報を共有する。対象は虹華帝国軍大佐、玄倉椿……および、穢魂その他怪物の類たぐい全て」
 楸の発したその名に、一同はどよめいた。何かを言おうとも、側の抹香や蚕蛾が一同を睨んで牽制けんせいしているし、当の最高司令官――楸の涼しい眼差しに一切の迷いがないことくらい、誰の目にも明らかにわかった。
 続いて抹香が情報を追加し、
「対象付近に数名の少年少女らが接近していることを確認している。彼らを傷つけることはないよう援護せよ」
 と言うと、楸ははあ、と面倒くさそうにため息をついて、
「命令、玄倉椿を捕らえよ」
 と改めて宣言した。
「御意」
 一同は一斉に立ち上がり、敬礼。
 隊長らが会議室を後にするのを待たずに、楸はさっさと羽織を翻し、車庫に向かう。この国ではまだ自動車は台数がかなり限られているため、空いていなければ使えないが、幸運にも一台余っていた。
 抹香が運転席に着こうとしたのを無言で遮り、楸がハンドルを握った。全く同じ嫌な予感を、二人の部下は共有する。
 三人を乗せた車はがたくり、がたくりと大きな音を立てて橙城から北へ向かう。車が普及していなければ道路の整備も甘い。
 一旦墨波の自宅に置いたままの武器など必要物資を取りに寄り、そこから急ぎ引き返して今度は橙城の北東方面へ走らせる。進むほど、道らしい道ではなくなってくる。
「ちょっ……あのですね閣下ぁ?! こんなオンボロの車で出していい速度じゃねーですよ!」
 後部座席、シートにしがみつきながら蚕蛾が吠える。その横で、抹香は何かに耐えるかのように目を閉じ、膝上で拳を握っていた。
「酔ってしまいそうですなぁ……これでは任務に支障が出そうですなぁ……」
 楸は言葉では返事をしない。代わりに、さらにアクセルを踏み込んだ。
 そんなやや乱暴な運転に同乗の二人がやかましく文句を垂れるのを聞き流しながら、道がなくなるギリギリまで車を寄せ、三人はそこから深い森の中へ入った。

「この岩戸の向こうには、大穴が広がっている。昔、人々が争った跡の中心地のひとつだから……穢魂エノヒの好むエサが豊富にあるというわけだ……」
 椿はまるで小動物を愛でるかのように岩戸の表面を撫でた。穢魂のほとんどは、この穴の中で生まれ育ち、封印を突き破って漏れ出てきている。岩戸も札も錆刀の結界も、それらを抑え切るほどには働かない。
「人の数だけ生まれるもの……怒りとか、悲しみとか、悔しさとか、そういうもの……人がいなければ、無くなると思わないか?」
 三人はその意味を理解し損ねた。理解できない故に、敵対心を抱いた。無意識的に、自分らの方が正義だと思ったし、三人はお互いに、他の二人もそうだろう、と信じた。
「穢魂はそう言った負の感情を食べることで、消してくれている。実にかわいいものですよ」
「穢魂に心を喰われた人間の有り様を……貴女は見たことあるの⁉︎」
 鱗は憤り、食ってかかった。脳裏に浮かぶ、元気だった頃の母の影。部屋から身動きも取れずに悶え苦しむのみの晩年、悲惨な最期。この無念を否定しないために、鱗は退魔師として穢魂を倒さねばならない。
「ふふ……見たことあるもなにも……ね。そろそろ私は行く。君たちも興味があれば」
 椿は巨石の岩戸を、触れもしないで開けた。ごりごりと地を擦る重たい音とともに、隠れていた崖の壁面から人ひとり分くらいの穴が見えるようになった。その中へ、ひらりと白い着物の袖を翻して椿は入って行ってしまった。中は暗いのか、すぐに道が曲がっているのか、その姿は一瞬で見えなくなってしまう。
「わたしは彼女を追います」
 瀬々は迷わずに洞窟の入り口へ近づいていく。鱗と胡兵は顔を見合わせて、ここまで来たんだから行くしかないよね、と瀬々に続いた。鞍寅は中に入らず、入り口の近くで静かに待っていた。

穴に入るとすぐに、地下に向かって階段上に下がっていて、進むほどに道は広くなった。入り口からの光が届かなくなるあたりから丁度よく篝火かがりびが置かれていて、視界に困ることはない。しかし、天井にも壁にも、何らかの生き物の一部分のような何かがあちらこちらに埋まっていて、揺れる篝火の照らす影のせいか、壁からはみ出した部分は微かに動いているようにも見える。瀬々も鱗も、そんな不気味な空間に動じることはなく、二人を見て胡兵は「ビビってる場合じゃない」と内心気を引き締めるのだった。
 洞窟は一本道だった。やがて三人は少し開けた空間に着く。四つの祠ほこらが壁に設置されていて、冷ややかな隙間風が紙垂しでを揺らすのを、先に着いていた椿は眺めていた。
「この禁域を、ここに封じられていた凶神を再度封印するのには、四つの鍵が必要なんだそうな」
 三人の到着を待っていたかのように椿は話し出す。
「まあでも、四柱のうち三柱は滅されてしまった……やはり人々の信心がなければ凶神とて力を持たないということか」
 椿がそばに控えている牛のような生き物――六白の背を撫でると、ぞわぞわとその毛が逆立って、徐に悍おぞましい姿に変わって行った。胴体からは蟹かにの脚、背には鳥の翼のようなものが備わって、ばさばさと羽撃はばたかせてみせた。
「穢魂……!」
 ――穢魂ということは、もう六白ろっぱくは、生きてはいないんだ……
 六白は鞍寅と同じく、瀬々が子供の頃から屋敷で共に過ごした動物である。おそらくはあの事件で命を落としたのだろうか? と瀬々は思案した。
「なぜ穢魂を使役しているの……? 穢魂は人と敵対する存在のはずです」
 頭の中に湧くたくさんの聞きたいことのなかから掻い摘んで、瀬々は恐る恐る問うた。
「魔脚マーギャを扱う退魔師エクソシストがいるなら、禍足カタラを扱う屍術師ネクロマンサーもいるというわけです。まあ人は都合のいい方に付くので、大多数が退魔師寄りの考え方をしているだけで……」
 椿は淡々と答え、続けた。
「能力のない人間にとっては、退魔師を崇めて守られているほうがずっと楽ですから。大した苦労をした事がなくたって楽を求めるのが人間のさがで、だからこそ社会は発展するわけですが……」
 一瞬目を伏して、椿は話すのをやめた。腕を前に伸ばし、三人の方を指差す動きに合わせて、穢魂の六白が唸りながら走り出す。
「襲いかかってくる!」
 胡兵は親指の指輪に集中し、地面を盛り上げて盾を作った。鱗はメスを構えて攻撃の態勢に入る。
 瀬々は、しばらく変わり果てた六白をぼうっと見ていたが、意を決して左手首に反対の手をかける。

「なにもかも無くなっちゃえばいいんです、何も無いところにはどんな諍いさかいも起こらないはず」
 椿の呟きは、三人と六白の戦う騒がしい音にかき消されて、誰にも聞こえていなかった。

 ♢

洞窟の外、禁域入り口前には虹華軍、西方部隊の一部と近衛隊、数名の救護隊員が到着していた。ほどなくして、楸とその側近・抹香、蚕蛾らが続く。入り口で主人の帰りを待つ鞍寅が、楸の姿に気づいて歩いて寄ってきた。
「錆猫……いや、玄倉大佐は何を考えているのだ?」
「わかんねーけどよ、勝手な動きをしているのを放っときすぎた俺らも悪い」
 抹香と蚕蛾はぶつくさ言いながら、武器を抱えコートを脱いで、有事に備えた。楸宅に軍服で訪問するのはよろしくないため、先ほどまでは私服だった二人だが、いつの間にか軍服に切り替えていた。
 楸は道中背負っていた軍刀を腰に佩はき、巨石の扉がよけられて見えている穴を覗き込み、耳を澄ませた。そして周囲を見渡して、
「中に入ったのかい」
 鞍寅の額を撫でながら尋ねた。鞍寅はなんとも答えないが、楸はさっさと洞窟に足を踏み入れて行ってしまう。
「あっ! え? もう突撃っすか⁉︎」
 蚕蛾が慌てて後を追うが、入り口は空いているはずなのに見えない何かに弾かれて、後方に倒れ尻餅をついた。
「結界? 我々はここで待てと言うことか……? ほんとあの人わかりづら……」
 抹香も穴を覗き込み、手を突っ込んでみたところ、蚕蛾と同様に見えない何かに触れた。

 ♢

三人の手により、倒れて動かなくなった六白。
「じゃ、次は姉ちゃんだな? 遊び半分でとんでもねーことしてくれやがってよ」
 胡兵は椿を見据えた。椿はふふ、と笑って、刀を抜いた。胡兵は指輪に意識を遣るが、先ほどと違って魔脚マーギャの反応が鈍い。椿が発する禍足カタラがあたりに張り巡らされて、魔脚と拮抗し押さえつけている。
「私は世界平和を目指しているだけですよ。私が建てたいのは理想郷ユートピア。苦しみも悲しみも怒りもない、何も無い世界です」
 椿は柄を握る手に少しずつ力を込め、ゆっくりと構えた。
「そうかよ、でも何もなかったらおもしれーことも楽しいことも何にもねぇんだよな? そんなのが理想なのかよ」
 胡兵は椿の発言に噛み付くが、魔脚がうまく寄ってこないのには内心焦っていた。椿が物理的な武器を持っているのに対し、丸腰である。刀に対してメスなど小型すぎて太刀打ちできないと、鱗も応戦の仕方に迷った。
「平等で公平に全員が幸福を享受きょうじゅできる世界って、あると思いますか?」
 何もできないまま立ち尽くすばかりの三人。瀬々は左腕の銃口で椿を捉えながらも、発砲をためらっていた。構える腕が震えるのに加え、弾数も限られている。外すのも、撃ちどころを誤って殺してしまうのも本意でない。
 椿は胡兵のすぐ目の前に立ち、上段に構えた。
「みんな一緒にこの禁域で眠りましょう」
 椿は柄を握る手に力を込める。
 翻る白い袖。
 刃が反射した、篝火の灯りが迫る。
 目前にまっすぐ振り下ろされる切先が、胡兵の瞳に映り込む。
 瀬々が咄嗟とっさに走り寄り、胡兵と椿との間に割り込んで庇かばおうとする。
 ――義手の左腕で、刀を受け止めるくらいなら……!
 できるかもしれないし、ダメかもしれない。ダメだった場合、内部の銃が壊れたらもう、戦えない。
 胡兵、瀬々と鱗の三人は同じ瞬間に、瞼をきつく閉じて現実から目を逸らそうとした。

椿によって振り下ろされた刀は、胡兵を斬り捨てるでもなく瀬々の左腕が受け止めるでもなく、耳を劈くほどの鋭い金属音を立てて、後方に弾け飛んだ。
 三人がおそるおそる目を開けると、すぐ目の前に人が一人増えている。よく知った人物なのに髪型が違うからか、胡兵と鱗はそれが誰なのか気付くのにほんの少しだけ時間がかかった。

  黒い軍靴に、地味なズボンが押し込まれていて、その上には尻端折りしたそれまた地味な着物を纏う……デニム地の羽織の、陰気な男。
「お前はいつでも私の邪魔をしてくれるな」
「そんなつもりは無いけどなァ?」
 長い前髪の向こう側で薄い唇がニヤリと弧を描く。抜かれたサーベル拵こしらえの軍刀を振り回すように肩に担ぎ、楸は胡兵らに退がれと簡素な手振りだけで伝えた。

  椿はやれやれと後方へ歩き、飛ばされた刀を拾い上げた。少し刃こぼれしているのにもため息をついた。
「袈裟斬けさぎりにしたのに……結界だって破れていたのにまさか生きていたとは。死んだふりでもしていたのか? お前は絶えず人をコケにしてないと死ぬのか?」
 椿は懐から呪印の描かれた札を一枚取り出すと、息を吹きかけ前方に飛ばした。呪印が消えて、小さな札を突き破り湧いて出るように現れたのは、板金を重ねて作ったような体のあの化獣。羊の体に曲がった角と牙を持つその姿が、巻き上げた砂煙の中から顕になる。狭い洞窟内の圧迫感が急激に増す。
「……前に倒した化獣と似ている……もしかしてあれもあの人が?」
「異形を次々呼び起こして……どうするつもりなのでしょうか」
 鱗と瀬々は状況を飲むのに精一杯。
 椿と化獣は一緒になって楸に襲いかかるが、楸は椿の剣撃を受け流すばかりで、化獣のことは避けながら無視していた。
 全く通用しない自らの攻撃にも、かと言って反撃してこない楸の舐めた態度にも、椿は徐々に苛立ってくる。
 椿の、踏み込む足の動きが少しずつ雑になる。振った刀身の軌道が不安定になる。楸が躱した後、立て直すのにかかる時間が僅かに延びる。
 その機微きびを目敏く察知した楸は、少しずつ椿を煽り始める。
「やっぱり手元がぶれてきたなぁ! お前親父の話ちゃんと聞いてたかァ?!」
 楸は椿の苦手な話題を確実に選んでぶつけていく。ずっと側で見ていたからわかる、椿の怒りの根源を掘り起こして逆撫でしていく。
「うるさい……次期当主として期待され育てられたお前と私は違う!」
 楸は思惑に乗る椿にニヤニヤとした顔を見せつけながら、頭の中では少し同情もした。
 椿は息を切らして、攻撃を止めて退いた。隣で化獣が低く唸り声を上げる。

楸もそれを追わずに退がり、隅に寄って見ている三人の方へ近寄った。
「先生の魔脚マーギャの様子……あれは、禍足カタラですよね?」
 瀬々が楸に聞いた。鱗も加わって尋ねる。
「……てことはまさか、穢魂に心を食われてたり?」
「穢魂に心を喰われた人間は大概動く気力すら失うが、稀にあるんだってなぁ……屍術師と化してしまう場合が」
「本人もそう言ってましたね」
 楸は瀬々や鱗の質問に答えながら、椿の対処法をまだ考えていた。禍足に意識まで飲み込まれて暴走する例なら少なくないが、禍足を意識的に利用する屍術師は、楸とて、どこかで聞いた話としてしか知らない。
 ――別に当人死んじゃいないなら、さらに揺さぶって叩き起こしてやろうか。
「……」
 睨み合う楸と椿はまた、刀を構えて衝突する。
「お前の悪い癖だ! 疲労で技が大味になる……腕力で勝てる相手なのかどうか、もっと冷静に考えたらどうだ?!」
 普段より声を張って、態とに悪口を畳み掛ける。それに対して椿は言い返せず、唇を噛んで睨むばかりだった。
「返す言葉も無いか? 大体お前が穢魂に喰われるなんてどんなヘマしたらそーなる……あーお前……ツメ甘いからな〜!」
「黙れ!! お前はなんでそんな悪口に限って饒舌じょうぜつに……!」
 喋りながらも余裕ある体捌たいさばきで、椿と化獣の攻撃を受け流し続ける楸。殺意はおろか戦意すらないように、瀬々らの目には映る。まるで赤子が泣くのをあやしているかのようにさえ見えてきていた。次第に疲れを見せ始めた椿との力の差が、どんどん広がっていく。
 椿が息を整えている少しの間に、楸は化獣の突進を躱して壁にめりこむほど激突させた。衝撃で、化獣は動かなくなった。こんなことで死にはしないのだろうが……。  楸に向けて、椿が乱暴に刀を振った。その切先に、敢えて避け切らず引っかかって頬に浅い傷を作って見せ、楸は言った。
「なあ椿、なぜ人を傷つけてはいけないと思う?」
「は……?」
 つー、と細く滴る血を拭いもしないで、楸は相変わらずニヤニヤ笑って続ける。
「この問いにダメなもんはダメとしか答えられない奴は人としてダメだと昔誰かさんに言われてなぁ、俺は時々考えていた」
 誰かというのが青桐雷らいであることを、鱗は知っていた。鱗は同じ話を聞いたことがあった。楸は視線を適当に斜め上あたりに泳がせ、軍刀の先でコンコンと、地面に生えた生き物のパーツのようなものを軽く突いて遊びながら続けた。
「傷つき過ぎた人はやがて人を傷つけるようになる」
 椿は眉を寄せ、唇を真一文字に結ぶ。
「だから人を傷つけちゃいけない。そして……人を愛し続けるためには、傷ついちゃいけない」
 その発言の内容に一切そぐわない、強い目線が椿を縛り、射抜いている。
 普段は猫背気味の楸がすっと背筋を伸ばしているだけで、空気が凍ったような心地を周囲に強しいた。瀬々らは固唾かたずを呑んで続く言葉を待つ。
「傷つけるのも傷つくのも弱い心、だな」
 椿の表情は怒りと悲しみ、悔しさで歪む。それを見て一層、楸は面白がって口角を上げて、
「……感情を殺せと親父にいつもあれだけ言われていた理由がお前にはまだわからんのかい?」
 楸はいつもと変わらない、特有の訛なまりの混じったような柔らかい口調で穏やかに話すのに、そして顔は笑っているのに、会話の当事者でない胡兵や鱗まで、見ているだけで底冷えするような気がしていた。対して、椿はその鋭い目をつり上げて、憤怒を滲ませる。
「親父曰く。力が拮抗した時勝つのは最後まで冷静でいられた方だ……故ゆえに、お前は俺に勝てない」  椿も頭では、とうにそんなことはわかっていた。わかっていても身体は激情に突き動かされて止まることができない。  ――おまえさえいなければ!
 椿がその握った刀を、ありったけの殺意を込めて振るうのに、楸はやっと応えようと柄を握り込んだ。立居たちい直して八相はっそうに構えると、ひんやりした空気が今度は凍てつくようにその場の全員の肌をビリビリ刺す。
 先に椿が踏み込む。
 楸の目つきが変わる。
 胡兵と鱗は固唾を飲む。

  「……斬っちゃダメです!」
 瀬々が見兼ねて、駆け寄って楸の腕に手をかけた。その不意の動きに椿は怯んで刀を引いた。
 ――斬られたことももちろんショックだが、貴方が人を斬るのはもっと頂けない。
 瀬々は無言で楸に訴え、そして椿の方に向き直る。
「……貴女はそんな人じゃなかった……目を覚まして、あの時……名もなき物怪事件の後何があったのか、教えて!」
 瀬々はこれまでの間に、頭の中に無造作に散らかった椿に聞くべきことを選び悩んで整理してしていた。
「あの……時っ……?」
 椿は強く頭を抱えてその場にしゃがみ込む。その様子に全員が、なんとなく既視感を覚えた。
 ――あの時聞こえた幻聴のようなもの。頭に響く怪物の声……この姉ちゃんももしかすると?

「そんじゃその間にこっちどーにかするかぁ……」
 しばらく動いていなかったが、震えながら立ち上がる化獣を見据えて、楸は瀬々を後ろに退がらせると、また軍刀の切先きっさきで地面を叩いて遊びながら、
「あ〜そうだ……椿、この前の、お前の質問にまだ答えてなかったな」
 と椿のほうを見ないまま言い、再度刀を構えた。
「俺は好きなモンから食うんじゃなくて、好きなモンしか食いたくない派だ」
「?」  胡兵と鱗は顔を見合わせて首を傾げた。いや、でもそういうところあるよね楸さんて……と二人は無言で意思疎通した。
「ただし食いたくないだけで残しはしない」
 楸は化獣の四肢ししを全て切り落として動きを封じ、腹を地につけた化獣の上に飛び乗る。軍刀を逆手に持ちかえ、剣先を下に向けて立てる。高く掲げてから降ろし、胴体を構成する板金の隙間に上から刀身を深く突き刺すと、中に居るであろう人型穢魂から出た血に似た液体がどろどろ漏れ出して、やがて化獣は崩れるように倒れ、事切れた。

 ♢

「あの日」何があったかって。
 皇太弟殿下の面影をわずかに残した怪物が、橙城の都から私たちの居る朱桜すおう離宮まで来るのは想像以上に早かった。怪物は離宮に着くときょろきょろ辺りを見回して、何かを探し始めた。母屋の建物の影で私たち使用人はその様子を見張っていた。
 怪物は、探し物を面倒がって、建物を破壊し始めた。私たちは仕方なくその場を離れようとして、離宮で飼育していた動物たちを引き連れて建物の影から飛び出した。
 当時、鞍寅と六白のほかにもう一頭、桃目ももめという馬がいた。この離宮での最初の犠牲はこの桃目だった。鞍寅と六白は仲間の死に動揺して、怯え固まってしまう。私と瀬々さまはそれぞれ手綱を強く引いて気付けようとするが、怪物はそんな間を待ってはくれない。
 瀬々さまと怪物の目が合う。瀬々さまは咄嗟とっさに鞍寅に飛び乗ったが、怪物は瀬々さまに飛びかかり、攻撃を防ごうと頭の前に出した左腕に噛みついてそのまま食いちぎってしまった。バランスを大きく崩しながらも瀬々さまは残った右腕で鞍寅にしがみついて、足で鞍寅を鞭打って走らせ、逃げた。
 六白もようやく動きを取り戻して、私は彼に乗って瀬々さまを追いかけた。怪物にはすでに無数の銃創があり、あれだけの攻撃を喰らってまだ生きているものを自分が倒せるとは思わなかったから、逃げるしか考えられなかった。
 執念深く追ってきた怪物が拾って投げた煉瓦が、六白の腹に直撃して突き破る。六白は声も上げずに、私を乗せたまま倒れた。地面に投げ出された私は思わず六白に駆け寄ったが、それが余計だった。
 愚弟に詰めが甘いと言われるのは、こういう部分のことだろう。
 瀬々さまの左腕の心配も、桃目や六白の死への哀悼も、穢魂がつけ込むには充分な餌。心を食われる、という感覚をここで知ったのと同時に、怪物が穢魂の類であることもわかった。

暫時ざんじ気を失っていた間に目の前から怪物はいなくなっていた――というのも、目の前に倒れた遺体は「皇太弟殿下の面影を残した怪物」ではなくて、「皇太弟殿下」そのものだった。
 自分はどうやら心を食われただけのようなので、身は五体満足で無事だった。
 ぐわんぐわんと打ちつけるような波打つ頭痛に冷や汗を流しながら、私は橙城の宮廷に向かった。事の顛末てんまつを報告しなければならない。

宮廷に着く数分前には頭痛が引いて、何もなかったかのように身体は楽になっていたし、頭の中に何かが入り込んだような違和感も薄れていた。
 荒れ果てた宮廷でボロボロになった兵士らが互いに手当てをし合うのを横目に見ながら、人々が集まっている会議所の方へ足を運んだ。

愚弟に発破はっぱをかけて、私は自然に足が向くままに宮廷を出て、その後は、どうしたんだっけ?

 …………

  椿は右手で頭を抱え、歯を食い張り、必死に思い出そうとする。ガンガンと脳が大きく脈打つ。酷い頭痛と共に脳裏に浮かんだ景色は、今ここにいる禁域だった。
 椿はようやっと、今一度自身の状況を悟った。どうやら、自分の中に入り込んだ何かが、この身体を使って好き勝手している……。
「ふふ……それは気に入らないな」
 椿は汗を握る右手を懐に突っ込み、護身用の小刀を取り出して順手じゅんてに握る。
 まだ戦うつもりなのだろうか? と胡兵や鱗は思ったが、瀬々は黙って見守るだけだった。
 そして、椿はその小刀の刃を、自身の左目めがけて突き刺した。
「師匠⁉︎」
 突然の奇行に瀬々は驚き、椿に寄り添おうとするが、椿は手を前に出して制止の身振りをした。痛みに悶え苦しみながら、その身から「何物か」が離れ行くまで椿は左目を抉る。

 瀬々が顔を覗き込むと、溢れ出す血の下で、左目を囲う災厄封じの呪印が薄れていくのが見えた。それと同時に、禍足カタラが椿の身から上方に出て集まり始めた。
 蝶というより蛾のような、大きな羽虫の姿をした穢魂のようなものが、極彩色の光と土煙を発してゆっくりとその翅はねを広げ、姿を表す。
 ――これが、怪物が禁域に私を導いて、この身に埋め込んだ災厄の姿か。
 椿は左目を押さえながら、開いた右目でその姿を捉えた。篝火の光を反射し美しくきらめく青い翅は、かつて紙芝居で見た夢見鳥に似ている。同じことを思ったか、胡兵はそれを呆然と見ながら、
「夢見鳥……」
 と呟いた。当然その「御伽話」のほうの夢見鳥でないのは胡兵にもわかってはいた。「都市伝説」のほうなのだろうか?
 椿はゆっくり立ち上がり、四つの祠が設置された壁面に向かう。壁面はよく見ると縦に長い亀裂が入っていて、地面に輪状の窪みが彫られた石板が埋め込まれている。椿が壁面を叩くのに目をやったとき、胡兵の目にその石版が映り、そしてその窪みの大きさ、形になんとなく見覚えを感じる。
「オイ椿! お前は何を考えてんだ?」
「……化け物はこれで終わりではない。禁域にはまださらに奥がある……」
 楸と椿の会話を聞き流しながら、胡兵は人型穢魂に渡されていた首飾りをポケットから出して、石板の窪みと比べるように重ねてみた。ゴリゴリと音を立てて亀裂の隙間が広がっていく。
「た……確かに洞窟はまだ続いてるみたいだな⁉︎」
 胡兵が受け取ったものは所謂、鍵だったようである。
 新たな空間が奥に広がるのを見届けるのを待っていたかのように、ゆっくりと翅を開き切った夢見鳥は、その奥の空間へ飛んで行く。
 一同がそれを追って踏み入れた禁域の最奥は、洞窟の中とは思えない明るさで、色とりどりの花と鉱石が壁中でひしめき合う、美しくも作り物のような世界。これまでの空間と同様に篝火が燈り、せせらぎの音の方を見遣れば泉が湧いている。
「なんだ騒がしいなぁ」
 どこからともなく、男とも女ともわからない高さの声で、話し声が聞こえてきた。続いて数人分の声が会話するのが聞こえる。
「災厄がいくらか外に逃げましたからねー」
「その代わり客人も入ってきたようだが」
「ん? 人間が五人……門番が間違えたのか?」
「まあ大した問題じゃないさ、それより災厄どうするよ」
「人々は我々を信じていませーん。救ってやる義理は無いでしょー」
「一応聞いてみようか。汝らは、わたしを信じるか?」
 会話は一同の答えを待つかのようにぴたりと止んだ。夢見鳥は、無理に先に進もうとしているかのように、一番奥の壁に体を何度もぶつけている。
「……だ、誰の声……? 誰かいるのか?」
 胡兵はぐるりとあたりを見回す。
「答えよ」
 空中にぽかりと浮かぶようなその声は、戸惑う胡兵らに返答を急かした。
「……昔、人々は八百万やおよろずの神と言って、太陽、月、海に山……あらゆるものに神性を見出していた。人々がまだ神を信じていた頃……神々は人々の恐怖を拭い、幸福を願う心を支えてきた」
 唐突に楸が胡兵に向けて語りかける。神を信じなくなった虹華国民には遠い昔話である。胡兵は楸のわかりにくい話にはそれなりに意味があることを経験から知っているため、聞き漏らさぬよう考えながら耳を傾けた。
「七百年前、災厄が文明を滅ぼすまでは……」
 そこからが、虹華国民の価値観に繋がるところである。人間が神を信じなくなったその日、人間によって造られたはずの神は居場所を無くした。
「聡い人間は好きでーす」
「愚かな人間もまた愛しいものだがね」
「我々はいつでも人々を愛しているのに……あー。伝わらなければ愛ではないのか……」
 空間に響く、誰のものかわからない複数の声の会話がまた始まる。
「……楸さん。情報提供感謝するわ……」
「じゃ、代表して答えをどーぞ」
 楸は胡兵の肩を強めにポンと叩いた。
「さて今一度問おう。汝はわたしを信じるか?」
 胡兵はすう、と息を大きく吸うと、どこにいるのかわからない声の主に届くように声を張り、
「信じるぜ! 災厄封じのために力を貸してくれ!」
 と答えた。
「聡い人間は好きだ……そして、己の身の程を正しく知る人間は聡い」
「汝らよ……この虹架かかる国の難を救い、英雄となれ」
「汝らの未来に幸多からんことを!」
 口々に話す何者か――四人の神の声がまた止むと、爆風と共に最奥の突き当たった壁が破れ、夢見鳥はそのまま外界に飛び出して行ってしまった。
 胡兵らは、その身に莫大な力を感じながら禁域外に弾き飛ばされる。洞窟に入ってからは地下に向かって下がって進んだはずなのに、飛び出した場所は崖下のようで、目下に森が広がるのを俯瞰できる。
「お、落ちる! 死ぬ〜ッ!」
 胡兵は慌てふためいて、バタバタを空中を泳ぐ。着地しなければ――胡兵は落ちる間に頭を目一杯回して、指輪のはめられた親指を見る。
 胡兵、鱗、椿、楸は胡兵が魔脚マーギャで作り出した大きな土のスロープに雪崩なだれ込み、ゴロゴロ転がって衝撃を和らげながら地上へ着いた。
「鱗さん無事かぁ!?」
「大丈夫! 目が回ってふらつくけど!」
 ――瀬々は?
 楸は洞窟から弾き出されたその時から、瀬々だけが居ないのに気づいていた。あの禁域の中に取り残されたのだろうか。壁は壊れていたし……あの人ならどうにかして出てくるだろう、と楸は自分らが落ちてきたその穴を遠く見遣り、振り向いて目前の状況に目を向けた。
「お嬢、あいつの目、応急処置を頼めるかい?」
「もちろん」
 鱗は椿の方へ駆け寄り、抉った目の様子を確認すると、懐から出したガーゼを細長く引き裂いて左目を覆うように巻いた。

 ひと足先に禁域から飛び出した夢見鳥は、橙城方面に飛行していく。
「瀬々さんいないのは気になるけどさ、あいつ追わねーとヤベーんじゃねーの」
 胡兵が夢見鳥を指差す。夢見鳥は決して速くはないスピードで、ひらりひらりと飛んでいく――ところどころに穢魂の稚児ちごを撒き散らしながら。

四人が禁域から弾き飛ばされるその時、瀬々の左袖を強く掴んで内へ引き込んだ何者かがいた。瀬々は四人が遠く吹き飛ばされるのに右手を伸ばしたが、瀬々だけは行動を異にすることになる。
 爆風が止み、禁域内が再び静かになると、瀬々を囲む二人の童がいた。
「漸ようやく見つけましたぞ」
「見つけましたぞ、虹華こうがの王」
 髪をみずら様に結ってまとめ、えらく古風な衣装を着た男女の童わらしたちは、瀬々の顔を見上げて懸命に話しかけていた。
「……? 貴方たちは、どなた?」
 瀬々の視線は、子供に向けるべき優しいそれではない。訝いぶかしげで、かつ、何かを企んでいるような目だ。童たちはそれぞれ瀬々の左右の手を掴んで、また別の場所へ誘おうと歩き出す。瀬々は抵抗もせずに伴って歩いた。
「王よ。虹華国の王はなにも、人間の住む五州のみを統べる存在ではありませんぞ」
「ありませんぞ。ここ地の国隠いん州と、われわれの住む神の国、陽よう州をも治めてもらわねば」
 童らは口々に、質問にも答えずに勝手に話を進めていこうとする。瀬々は黙って、ふうん、という風にそれを聞いていた。
「代々王は即位前に、ここへ来て、この国のす・べ・て・を知るのです」
「知るのです。……先代の王が死んだ後、どこかにいるはずの貴女がいないから困りました」
 童はいかにも子供らしいふっくらした頬をさらに膨らませて、首を左右に振ってみせた。
「そうですね、で、先代崩御から今まではどうしていたんです?」
 瀬々はもはや自分のことより、目の前の異物のことが気になる。純粋に興味で聞いた。
「先代の死の理由が理由なので、えーと」
「えーと、それで、人間の住む領域の騒ぎを収めるためにここへ来た軍人に、暫定の王を任せました」  その回答に、瀬々はくすくす笑う。
「暫定、ね……そんなのが良しとされるなんて、結構テキトーなんですねぇ」
「ところがあの軍人、われわれの願いを完全には聞き入れてくれなかった」
「くれなかった! 陰陽二州には我関せず、人間の領域でさえ、先代のやり方をなぞるだけ」
 童は不満げに目を釣り上げて、怒ったように文句を言った。
「暫定の、なんて枕詞まくらことばつけたからじゃないですか。ちゃんと頼むべきだったのでは?」
 その「暫定の王」の意地悪な、呆れた顔を思い浮かべたら、余計に笑えてきてしまう瀬々。あの人はこんなところでまで巻き込まれ体質なんだ、とも。
 瀬々は二人に手を引かれ、入って来た場所とも四人と逸れた場所とも違う出口に着いた。
 外なのに、これまでいた世界とは少し違う空気感の場所。何もいないように見えるが、何者かが暮らす気配がする。瀬々は辺りをすこし見回しながら、二人の童に尋ねようとした――

 ――頭の中に、なにかたくさんのことが流れ込んでくる!
 こんなにも突然で、一方的なのかと……こんなやり方じゃ彼らの言う暫定の王――楸さんが言うことを聞いてくれるはずない、と、瀬々はチカチカと細かい光が瞬いて揺らぐ視界の中でも、思わずくつくつ笑うのを抑えられない。
 流れ込む大きな波が去ると、瀬々はそのあまりの量に一瞬吐きそうになるが、留まった。
「なるほどこれは人間のやり方じゃないですよ、まあでもわかりました、あなた方はほんとうに……」
 瀬々がべらべら喋るのを遮って、童たちが口を開く。
「人間ではないですから」
「ないですから……でも、人間とある種対等で、怪異ともまた、そうなのです」
 瀬々は喋ろうとするのをやめた。まだ、この状態で、振る舞いをコントロールすることに慣れない。何も考えないままもとの人間の領域とやらに戻って、いつも通りに振る舞えば、きっと少しおかしなことになる。短絡ながらに危惧した。
 瀬々はその後二人の童と別れ、誰に聞くでもなく自らの足で禁域の外、抹香や蚕蛾が待たされている洞窟入り口までたどり着いた。
「あ、あの時のおん……」
「こら蚕蛾かいこが! 閣下の恩人に向かってその口の利き方はなんだ」
「……お二人は、橙城にお戻りになられた方が。禁域からまた化け物が飛び出したので」
 瀬々は言葉を選びながら、不自然のないラインを探りながら話した。それがまた、彼女らしくなく不自然なのだが。
「なんと、して閣下はどこへ?」
「とっくに禁域を出て化け物を追っています。だから貴方たちもここから動かないと置いてけぼりですよ」
 抹香と蚕蛾はその言葉に煽られて、意気揚々と武器を抱えて走っていった。去り際、蚕蛾が一度瀬々の方を振り向くと、瀬々は高い空を見上げて、これまた彼女らしくない神妙な面持ちで、数多の天書鳩てんしょばとを集めては飛ばしていた。天書鳩を扱えるのは、皇族と一部の軍上層部の人間のみと限られている。「どこの馬の骨かわからない」瀬々の正体に俄然興味が湧いた蚕蛾は口元をほんの少し緩ませながら、急くように足取り軽く橙城とうじょう方面に飛ぶように走った。

胡兵は都の方面へ飛んでいく夢見鳥を追って、もうこれ以上は動かないというくらいに両足を懸命に回して地面を蹴る。できる限り速く! と、走る、走る。禁域から弾き出されて無理やり着地した時の痛みも、すっかり麻痺していた。
 今までの穢魂などとは比べ物にならない雰囲気の異形に対して覚えたのは、恐怖だけではない。胡兵が肩を震わす理由も、冬の寒さや怖気だけではない。夢見鳥を、盗んだ切符をきっかけに転がり出した人生を、無我夢中で、勇足で追いかける。
 小さな狭い国だから、モタモタしていると本当に橙城に着いてしまう。胡兵が時折後ろを振り返るが、鱗は椿を介抱しながら後を追いかけてくるから、その度に両者間の距離は遠くなっていった。

ちょうど胡兵の視線のずっと先に都の高い建物が見え始めた頃、急に周辺に人の気配が増えたかと思うと、深い草むらや木の影から次々に夢見鳥を狙った砲撃が始まった。虹華こうが軍だ。彼らの攻撃に抵抗して暴れ始める夢見鳥に、さらに襲いかかる光る礫つぶての群。軍人らには雹ひょうかなにかのように見えたが、周りの天気とその現象はどうもリンクしない。胡兵には、それが魔脚マーギャによる力だとすぐにわかった。
 どこからか飛ばされてくる礫が、鱗粉りんぷんと穢魂エノヒの稚児を撒き散らす大きな翅に、ビシビシとぶつかっては傷をつけていく。夢見鳥は鬱陶うっとうしそうに、青い翅を羽撃かせて礫を弾く。跳ね返された礫は、地上に落ちるより先にじゅわっと解けて消えていった。
「前列撃て!」
 司令官の号令に続いて一斉に砲撃する虹華軍だが、先の礫と違い夢見鳥にダメージを与えることができていない。その場にやっと追いついてきた抹香は、司令官に全員退避命令を促す。
「あれを放置しろと仰るのですか? 橙城はもう近いですよ」
「砲撃も通らねえ相手になす術があるってかァ⁉︎」
 司令官の対応に蚕蛾も反論する。
「なす術ならたぶん、ある!」
「君は……!」
 抹香は割り込んできた少年──胡兵を見遣り、まずその無事を労った。
「そんで、出てこいよ! さっきの雹だか霰あられみたいなの放った奴」
 胡兵の呼びかけに応じ、渋々といった面持ちで木陰からのっそり出てきて彼らと合流したのは、楸であった。抹香らについてきていた、主人を見失い迷子となった鞍寅が、その姿を見つけては駆け寄り、頭を撫でろと催促した。楸は鞍寅の不安を拭うように額を撫でてやった。
「相変わらず面倒くさそうな顔してよお。なあ楸さん。夢見鳥の飛んでる高さってどれくらい?」
「はぁン……? どれくらいって、え〜……」
 楸は、ただでさえ細い目を思い切り細め、夢見鳥を見上げた。そして、右手にぶら下げるように持って遊ばせていた軍刀の柄をぐっと握り込んだかと思うと、手首のスナップでその刃先をビュンと上に素早く掲げた――

――うわ!? 地面が、足場の雪が盛り上がって……!
 キラキラ光る魔脚マーギャが足場の雪に染み込むのが見え、胡兵はあっという間に「その高さ」に連れてこられた。胡兵には、足元に急に雪山が出現したかのように見えた。
「ほんッとあの人はさぁ! 実行の前に説明とか、無いんか⁉︎ まあ……ちょうどいい金物もご丁寧に同梱してもらってるみたいだし、一丁騒いでやるかあ!」

  地上からはその巨大な雪山は、さながら祝い事用のケーキなどの上に載っている砂糖菓子人形マジパンのように見えていた。
「いやー……さすが、筋金入りの甘党だなぁ……」
 鱗と椿が後方でその様を呆然と眺めていると、上からバチバチと爆ぜる音が聞こえてきた。上空を、炎を纏う妖鳥のような光が飛んでいく。

  「さぁて、奴が散らかした穢魂のカスは我々で片付けましょーかね」
 楸は手振りで抹香と蚕蛾と虹華軍の兵士らを率いて、橙城方面へ走っていった。

  胡兵は不慣れな手つきで、どういうわけか雪山に突き刺さっていた軍刀を掴み、指輪に意識を向けた。魔脚の力で、光に包まれた刀身が巨大な鎖のように形を変える。胡兵はそれをブンと思い切り振り回し、夢見鳥の胴体に巻きつけた。
「よっしゃ捕まえた!」
 ──しかし捕まえてどうする⁉︎
 一瞬戸惑った胡兵の後ろから、激しく燃える火花の鳥が矢のように横を通り過ぎて、夢見鳥の翅を貫き大きな穴を開けた。飛行能力を失った夢見鳥は、翅を炎上させながら地に向かって落ちる。
 絡めた鎖に引き摺られて共に落ちながら、胡兵は再度指輪に力を込め、今度は刀身をハンマー型に変えて、大きく振りかぶった。巨獣の牙のようなハンマーは、胡兵の呪文とともに夢見鳥の胴体に突き刺さるが、夢見鳥は踠もがきながらも動きを止めない。

  胡兵が再度地上に降りると、鱗と椿も同じ地点まで追いついてきていた。
「アンタすごいね。怖くないの」
「怖くないことはないけど……でもさ、頑張らなきゃいけない時ってあると思うんだ。別に特別な、スーパーヒーローなんかじゃなくたって、誰だってなんかやらなきゃいけない時、あるだろ?」
 胡兵は鱗の問いかけに答えながらも、次の手を懸命に捻り出そうと考えていた。それに、胡兵は今まで修行の中で得たよりはるかに強い手応えというか、力が沸いて漲るような感覚がしていた。洞窟の中にいた、神サマとやらの加護なのか。
 夢見鳥はまた、振り絞るように力を込めて翅を動かし、胡兵らに向けて毒気を帯びた鱗粉を飛ばしてくる。胡兵が盾を作ろうとしたとき、それを遮って代わりに魔脚を使い、雪で防壁を作ったのは椿であった。
「奴の攻撃は私がいなすから、君は構わず自分の攻撃に集中しなさい」
「姉ちゃん……!?」
――あれ、魔脚使う時に呪文を唱えない人、ここにもいた……!
「あれは『夢魅鳥ゆめみどり』、かつてこの地にあった国を滅ぼした災厄……魔物です」
 椿は胡兵の背中をとんと軽く押して、前へ促した。そして、目前で燃えながら、バタバタ抵抗する夢魅鳥を見据えて、
「亡国の穢魂よ……貴様を消し去り、私も消えよう」
 と呟いた。胡兵はそれを黙って聞いていた。
「鱗さん! 奴の胴体を、心臓に向かって削って掘ってくれ!」
「了解、壊死ネクローシス・穿孔!」
 胡兵は託されたままの軍刀をまた握り、攻め込む鱗のメスに続いて夢魅鳥の懐へ飛び込んでいく。夢魅鳥の翅から放たれる鱗粉攻撃は悉く椿が弾いて胡兵を守る。 「観念しな! くらえ、『神の見えざる手』!」
 突くように前へ差し出した刀身は、獣の前足のような鋭い爪のある手の形に変わり、夢魅鳥の心臓目掛けて伸びていく。
 激しい羽音が途切れ、ぴたりと動かなくなったあと、翅にしつこく残っていた火の粉が次第にその巨体を包み込んだ。燃え上がる炎が災厄を葬るのを、胡兵と鱗はその目に焼き付けた。

椿は目の前の光景に、脱力感を覚えた。その場に座り込んでしまい、しばらくそこから動けないでいると、胡兵が戻ってきて言う。
「なんも無い世界なんてオレはいやだね。温もりある生活を教えてくれた人も、オレの持ってるもんに気づかせてくれた人も、ゼツミョ〜な飴と鞭で導いてくれた人も、な〜んも無いなんてありえねえ!」
 何も言い返さず、その言葉をただ聞いている椿に、胡兵はさらに、
「あ! そうだ、オレに夢の国行きの切符をくれた人もいないとダメだな!」
 と付け足した。
「君は……愛すべきものがたくさんあるんだね。そして……君もまた、愛されているのか」
 椿は柔らかな笑みを浮かべ、参ったと言わんばかりに俯いた。愛されている、との言葉にはまだピンと来ていない胡兵だが、地元にいた頃のやさぐれた気持ちをふと思い出してみると、愛すべきものをたくさん得たことは確かだと思った。
「一人で戦うのはやめようぜ。きっと、味方だらけの世界もなければ、敵だらけの世界もないんだ」
 胡兵が差し出した手を、椿は握り返して、胡兵はその手を引いて椿を立ち上がらせた。
「……助けてくれてありがとう。消えるのは……一旦保留にしよう、君の行く末にまた、興味が湧いてきてしまったし」

一連の様子を、そこらで一番高い木の上から眺めていた人物がいた。夢魅鳥を燃やした炎の鳥の出所、瀬々は、事が落着したのを見届けると、何羽かの天書鳩を従え、ひらひら木の枝を伝い飛ぶように渡って、橙城へ急いだ。

それから三年。橙城とうじょう駅前に新しくできた二つ目のアーケード街で、鱗は頼まれたお使いのため、買い物をして回っていた。この日は事務用品を求めて歩く。鱗は青桐医院をいつか再開させるべく、橙城地区内の別の医院で助手をしながら、医学の勉強を続けている。穢魂はあれから急激に数を減らしていき、生き残りが稀に人前に現れるくらいで、退魔師の仕事はもう、生活費を稼げるほどには無い。
 アーケードを出ると道路がより整備され、三年前より車の往来が増えているのを感じた。揃いも揃ってがたくりがたくりと音を立てながら、その列の中には「パトカー」なるものも走っている。鱗がふとそのパトカーの方を見ると、助手席で敬礼して見せる胡兵と目が合った。
 ――元気そう、頑張ってんだな。
 鱗は思わず頬を緩めて、手を振って返した。

修繕が完了し、美しく生まれ変わった橙城の大聖堂では、香染こうぜん皇子の二歳の誕生日を祝う会が開催されていた。皇子はその母――皇帝、瀬々の裾を掴んで、もじもじ隠れていた。たくさんの人が周りにいるのが苦手なようで、そして今日は一段と構われるから、疲れてしまっているらしい。
「少し気分転換しに行きましょうか」
 相変わらず気儘きままな瀬々は、皇子を抱き上げて大聖堂の最上階のバルコニーへ一気に駆け上がった。慌てて側近の抹香と蚕蛾が後を追いかける。
「ほーら、お外が見えますよ。今日はいい天気です、ああ、ちょうどこんな青さをしていた――」
 夢魅鳥ゆめみどりの、光を弾くように輝く大きな翅は澄んだ寒空を鏡に写したみたいな青で、蝶とも蛾ともわからない奇妙な姿形の割に、その見た目だけなら美しいと言っても過言ではなかったと、瀬々は思っていた。あの後再度封印されることはなく、燃え尽きて消えた夢魅鳥を虹華の民が恐れることは、もうない。あの洞窟のあたりは、今では危険地帯という意味でなく、神の領域としてまた禁域と呼ばれることになっていた。
 あの戦いのあと、瀬々は誰か人と話すたび、「神様が化け物から国を守ってくれたんだ」という話をよく聞くようになった。昔の人々がそうだったようにまた、人は不思議な力が働いた時、それをなんとなく良し悪しで分けて神のおかげ、鬼の仕業、などと呼ぶようになった。そんな人々の態度の軟化を受けてか、人々の住まう領域とは別の場所の住人たちが、ほんの少しだけ人間たちに干渉するようになってきていて、それらをも統べる存在である瀬々は些いささか頭を悩ませることもあった。領域など分けず、この街にも彼らの居場所を作ろうか――この大聖堂のように。
 

「しかし、あの人は……息子の誕生日というのに、帰ってきませんね」
 そう言う瀬々に頭を撫でられた、父親に似て切長の涼しい目元をした皇子は、もっちりした頬を膨らませながら、静かに橙城の街並みを眺めている。
「陛下は言うほど寂しそうでもなさそうですが……」
 抹香まっこうの言葉に、瀬々はくすくす笑いながら、
「なぜでしょうね。遠い場所で仕事をしているけれど、なぜかすぐ近くにいるように感じるんですよ」
 瀬々が外の方へ手を伸ばすと、一羽の天書鳩がその手にとまった。鳩のかたちが瀬々の掌の上で白い封筒に変わる。瀬々はそれを開けて、中の手紙に目を通すと、 「坊や! 明日には戻るみたいですよ、お父様! 一日遅れますが家族でお祝いしましょうね」
 と皇子に声をかけた。

そして椿はまた、白金地区にいた。満開を過ぎ散っている桜の木の下で、今度は警吏けいりの制服を着て、椿は巡回の合間の休憩をしていた。スラムと化していたかつてのこの街は、あれから少しずつ犯罪率を下げている。いつしか誰かが開発した鉱山で、暇を持て余していた貧民が働くようになり、この街でも経済が回るようになっていた。「格差を是正するには貴女が適任ですよ」との新しい皇帝の勅命……とその背後にいる誰かの圧力で、この街で治安維持に携わることになった椿は、その剣の腕前で市民に恐れられながらも、不思議と慕われていた。市民のひとり、駅前で掃除をしていた老人が椿に声をかけている。
「なあ警吏さん。あんたら数年前までただの税金泥棒だったのに、一体何があったん」
「ん〜。いろいろあったんじゃあないですかね……」
 椿には、そのいろいろを市民に一言で説明することはできなかった。眼帯の奥の右眼に軽く手を添えて、自分の世界が動いた「あの日」に思いを馳せた。何も見えないはずの、義眼の右目の瞼に映る記憶の景色は、いいものばかりでもなければ、悪いものばかりでもない……。
 あの日よりずっと前――そもそも椿が描いていた夢、願いは、今はきっと叶ったと言っていいはずで、それが今の椿の心の風穴を埋めている。
 駅前はあれから少しきれいに整備されて、花壇に植えられたチューリップが陽気の中で揺れている。花から花へ飛び回る白い小さな蝶を、椿はじい、と無意識に目で追った。
「ここはいい街だと、私は思います」
 白金駅に停まった汽車が、汽笛を鳴らすのが聞こえた。そろそろ休憩を終えようと椿は、きっちり留められたシャツの第一ボタンを外し、タイを緩めて立ち上がる。
「人々の流す汗も、それが作り上げていく新しい街も……ここにあるたくさんのものが、愛おしい」
 椿は目を伏したまま、数歩先の地面の辺りに視線を向けて呟いた。
「そうかぁ? まあ……数年前までの白金と比べりゃあ天国みたいなもんかもなあ。だったらあんたそんな顔、すんなよ」
 老人はそう言って、にかっと笑って去っていった。椿はその背中を目でなぞる。そんな顔、ってどんな顔だよ。

――今がどんなに天国や極楽でも、地獄だった過去はそう簡単に消えてはくれない……歳を重ねるたびに笑えなくなる未来より、別の道を選べるなら、私はどうしようか?

過去より今を、今より先を、生きていくしかないのかもしれない。