極彩禁域
第三章:虹架かる国の記憶
二七一三年。十九歳になったばかりの椿は、いつも使う道とは反対の道を行く。今日も寒かろうと思ってマフラーなんか巻いてきたが、小春日和が存外心地よい。
きれいに舗装された橙城の街のメインストリートは、歩き進めるにつれ土が剥き出しの道に変わっていった。それでも太い道路はまだ続いていく。道沿いの建物は商業施設から住宅へと、その密度を落としながらだんだんと景色を変えていく。
橙城地区がある艮州の南隣、離州まで貫く道をなぞり、橙城の中心街を出て、さらに南に向かう。大きな川があって、汽車も通る大橋が架かっている。それを渡った先にあるのが、椿の目的地・朱桜離宮である。
もともと虹華軍において武力行使をしているのが常であった椿だが、その剣の実力と、皇帝の隠し子と同じ女性であると言う点で、とある任務に抜擢された。それも皇帝直々の命令で、内容は隠し子の教育係、そして護衛だ。
離宮に着くと、ひとりの世話人が門前で椿を出迎えた。彼女は隠し子が生まれた頃――十数年ほど前からここで仕事をしている。ある程度のことは着任前から引き継がれていたが、椿に軽く内部の案内などしながら門の奥へ促した。門を抜けると書院があり、庭を突っ切るように伸びる長い渡り廊下が最奥の御殿まで結ぶ。その橋のような廊下から、広い中庭を見ると、「朱桜離宮」の名の通り、色が濃いめの桜が咲いていた。八分咲きといったところか。
椿は皇帝にも謁見したことがあるため、その娘に会うのに特別緊張することもなかった。しかし、隠された存在ゆえ、どんな子なのか一切前情報がない。
この離宮は、皇帝――香淵帝によれば、その隠し子のために建てさせたものだという。漆黒の甍と白い壁に映える、丹塗りの美しい柱。ところどころに繊細な意匠の彫刻が施され、庭の植木、内部の調度品まで統一感を持って造られたものだと椿は一目で直感した。
御殿に着く。一面に優美な朱雀を描いた、いっそう立派な扉に、椿は感嘆した。陛下の仰るのが本当の話であれば、この隠し子殿下は愛されているのだ、と。
件の隠し子殿下は、端の大きなソファに座っていた。座らされていた、と言う方がふさわしかろう。華奢な体躯の少女。どこかふてぶてしい表情で、しかしながら居住い正しく背筋を伸ばして座る。両脚を揃え、固く握った拳を膝の上に乗せて、その全身に強張りさえ感じさせた。
世話人が隠し子殿下に、椿を紹介しようと声をかける。むしろ殿下の方が緊張しているのか、大きな琥珀色の瞳がキッと睨むように椿の方を見た。
椿の挨拶に、やっと口を開いて、隠し子殿下は名乗った。
「瀬々、と申します」
そう一言だけ言うとまたその口を一文字に結んでしまう。この時点では、はて、この隠し子殿下――瀬々とうまくやっていけるのだろうか、と椿はいささか心配になったものだった。
瀬々は生まれてこの方、ずっと離宮に閉じ込められて生活してきた。そしてここに出入りするのは、認められたわずかな使用人だけである。このときまだ十三歳、年端のいかぬ少女なのに、一緒に遊んだり話をしたりする友達なんかいたことないから、その振る舞いはきわめて子供らしくない。
今日からこの離宮で、住み込みの仕事が始まる。椿は与えられた小さな部屋にひととおりの荷物を置いて、御殿のソファから姿を消した瀬々を探した。
渡り廊下の赤い手摺にすこし体重を預け、椿はなんとなしに中庭を見渡す。大きな栃が日陰を作って、その下のブランコに座る人影がある。目を凝らすと、長い赤髪を低い位置でふたつに結んだ後ろ頭が見えた。瀬々は本を読んでいた。
椿は渡り廊下の途中、庭に出られるように取り付けられた段差を降りた。一歩一歩踏みしめるたびに足裏に伝わるふわふわとした芝生の感触。そよ風に乗って鼻を掠める新緑の香り。ここでは不思議と、ゆるやかに時間が流れる気がした。
「ここはよい場所ですね〜、瀬々さま」
目を細めながら声をかける椿。そのまま瀬々に隣に掛けてよいか尋ねると、瀬々は読んでいた本を静かに閉じ、こくりと頷いた。
「離宮の外は、よくないところなのですか」
瀬々のその問いに、椿は口を噤んだ。離宮の外、という語が指す範囲が広いのに困った。そしてこの離宮が「よいところ」というのも自分の主観でしかないと気付かされる。瀬々の表情が暗く見えるのはここが日陰だからではない。
「……外も、よくないところばかりではありませんよ」
椿はやれやれといった顔で、ありのままのことを答えた。そんな椿の様子を斜に構えて見ていた瀬々は、すこし間を開けてから、
「そう。いつか行ってみたいな……」
と呟いた。椿に言ったのではないと明らかにわかる、ひとりごとだった。
この子が望むのなら、それらしい理由をつけて連れ出してやることはできないか? と椿は思考を巡らす。
瀬々は一日のなかの自由な時間はほとんど、本を読んだりラジオを聴いたりして過ごしていた。離宮の外の、ふつうの人々の生活がのぞき見える、擬似体験できる。両親や兄弟姉妹との暮らしやら、友達や恋人と過ごす時間やら、そういうものがありふれているのを、情報として知ることはできる。
そういったものに憧れるのは、この暮らしでの寂しさがそうさせるのだろうか、と椿は考えた。
だいたい、瀬々は一貫してつんけんした態度をしているものの、本当は椿とおしゃべりがしたいのを隠しきれていなかった。挨拶は欠かさないし、何かにつけてひとこと声をかけてしまうのだ。どんなに他愛のないことばにも、椿はにこやかに、かつまじめに答える。瀬々は椿のそういうところを気に入った。
後日、武術指導の後、椿は瀬々に着物を用意し、自分もそれに合わせた格好をして、「ご内密に」と約束をして離宮の外に誘い出した。瀬々が普段着ている服は少しハイソで、そのまま出ると目立ちそうだったから、いかにも往来の娘が着ていそうなものを、と椿が選んできた。
「では先生! わたしたちは姉妹という設定にでも致しましょう」
と提案したのは瀬々だった。戸惑いながらも突然起こった非日常に乗り気になっている。椿の同意を確認すると、瀬々は初めて顔を綻ばせ、
「参りましょう、姉さま!」
と椿の手を引いた。
勝手に連れ出して、瀬々に何かあってはいけないから、椿は終始まわりを警戒して歩いていた。瀬々は椿の袖を強く掴んだまま半歩ほど後ろを歩く。しかしその顔は明るく、初めて見る「離宮の外」に目を輝かせていた。
帰宅するころには、ふたりはいっそう打ち解けて、「本当にこんなお姉様がいたらよかったのに」と言いながら、瀬々は雀が跳ねるような軽い足取りで自室に戻っていこうとする。そこに、世話人が小包を抱えて現れた。
「瀬々さま。お母様から、お荷物が届いています。いかがいたしますか?」
それを聞いて、瀬々の顔は一瞬で暗んだ。
「そのへんに置いておいて」
瀬々は、先ほどまでの様子と一変した冷たい声で言い放つ。自室のドアノブに、何も受け取らず空いたままの両手を掛ける。事情がわからない椿は、小首を傾げながら黙って見ていた。
「あの〜、せめて、開けて中身を一度確かめてはいかがです? それでも気に入らなければ、どこかにしまっておきましょう」
椿はそのように提案した。椿が言うのなら、と渋々、椿にその荷物を持って部屋に入るよう促す瀬々。
小包の中身は、お母様――香淵帝から贈られた瀬々へのプレゼントだった。虹華帝国の代表的な伝統工芸品、絡繰人形だ。椿はこの人形の顔にかすかな既視感を覚えた。昔、実家で似たものを見たことがあるような気がする。
「わたしは母親の顔も名前も知りません。知らない人から何が贈られてきたって嬉しくないです」
瀬々は頬を膨らませて言った。天邪鬼な瀬々のことだ。なるほど彼女は自身のルーツを、母親の正体を知りたいのか。
「お母様にこだわりがありますか」
椿はなんとなく尋ねた。瀬々はその意味がよくわからなかったようで、答えず首を傾げた。
「いや、すみません。深い意味はありませんでした。参りましたね〜……しかし……その、私はお母様のご意向を汲みます。人形は、今はしまっておきますか?」
瀬々は黙って考え込んだ。
「困らせてしまいましたかね。今決めなくてもよいことです。とりあえずは、この棚の上にでも置いておきましょう。いやになったら退ければ良いですからね」
椿は、二人で外の街に繰り出した時の瀬々の表情を思い出しながら、考えた。彼女の明るい笑顔が好きだ。それが一時のものではなくて、これからもいつも、そうあってほしい。どうしたらいいだろう。彼女自身が強かに、心を守れるように、愛を獲得できるように……。
「あの、ごめんなさい。先生を困らせるつもりはなくて……」
瀬々が、ばつが悪そうに椿に言った。椿ははっと、眉間に皺を寄せて考え込んでしまったことに気づく。
「すみません、とにかくですね〜……お母様も私も、瀬々さまのしあわせを願っておりますよ」
椿は微笑んで言った。
瀬々は、承服いたしかねる、とでも言いたげなむくれた顔で、しかし首を縦に振って頷いた。
椿は武術指導の合間に、瀬々に魔脚の使い方を仕込んだ。今後も橙城の街に出る場合、万が一に備えて自身も戦えたほうがよいと考えたからである。当時は、かの女帝が禁域周辺に結界を張って穢魂から国民を守っていた。しかしその結界も完全ではなく、どこからか漏れ出てくる個体もいたのだった。
椿は武芸にしか能がない自覚があったから、その方面に関してだけは、瀬々が強く生きていけるようにとやたらと世話を焼いた。
それから四年あまり。橙城地区中心部、青桐医院にひとりの若い軍人が尋ねてきた。歳は二十歳やそこらと見える。破れ傷んだ軍服の切れ間に、赤い色が滲んでいた。いくらかよろめいた足取りながらも、へらへらとした顔をして、軍人は診察室の椅子にかけた。
「オメー今度は一体なんの任務に飛ばされたんだい」
医師、青桐雷は無精髭の顎を指で撫で回しながら、ため息まじりに訊いた。それに対し、
「そんなこと、現場の狗以外の人は知らなくていいんです」
軍人――楸は淡々と答えた。袖の中、腕を伝って、左手指から血が滴るのに、げえ、と口を歪める。
「銃創でも刀傷でもないしよぉ。打撲なんかでもなさそうだし……大体オメー……あー、相手は動物か?」
「……さあ、どうでしたかねぇ」
何を訊いてもはぐらかす楸。青桐医師とて楸の言う、狗か狗でないかと言えば――軍医としての仕事の他に国家から任されている仕事の内容を考えれば、きっと誰よりも狗だ。それを除け者にでもしようというような楸の生意気な口ぶりに応酬してやろうと、青桐医師は傷口にたっぷりの薬を押し込むように染み込ませてやり、痛い痛いと騒ぐ楸を嘲笑う。
そんな青桐医師が、虹華帝国軍の研究所の一室で遺体となって見つかったのは、それから一週間も経たないうちだった。
当時少将の楸が研究室を訪ねたその時、明かりは全て消えていた。というより、照明器具どころか室内のあらゆるものか荒らされ、破壊された形跡がある。暗い室内の床一面に、薬品と思しき液体と、遺体から漏れ出た血液の混ざったようなものが広がっていた。薬品由来であろうか、体に悪そうな臭いが鼻をつく。薬品は研究室のさらに奥、隠し扉が破られた中からのびた跡がある。
青桐医師の遺体には、何によるものなのか一般的な人間には判断しかねるであろう、異様な傷がついていた。かつて青桐医師が診て不思議がった、楸の傷に似たものもある。楸は隠し扉の中にいた〝なにか〟が重要参考人だと推測した。
楸は現場の状況を変えぬよう、また遺体に触れぬように慎重に近づいて、その息を確かめた。楸にはその生死など見れば大体わかるものの、ほんの一縷でも希望をかけたかったからである。もし生きているならすぐに助けなければ。そうは思いながら、この惨状を目前に眉ひとつ動かない、人の死際に慣れた自分に呆れた。
しかし、やはり青桐医師の息は無かった。それを飲み込むように楸は数秒頭を伏した後、床に広がる血液の引き摺られたような跡を目で追った。その色の褪せ方、乾き具合。そしてそれがどこに続いているか……。
楸は、研究室を後にし上官にひととおり報告を済ませた。そして血痕の続く先を訪ねようと、その跡をなぞって歩く。ブレのない赤い線は進行方向に迷いがないことを示すようだった。
血痕は薄まって、やがて途切れた。地面を見ていた顔を上げた、その目先にあるのは――御所だった。
長い前髪の奥で鋭い目がなにかを睨む。まだ視界には見えない、しかしすぐそこにいる、なにかに。人のものとは違う異質な殺意は、それに慣れた楸には色がついて見えるようなものだ。
楸は天書鳩を何羽も飛ばし、しばらく陰で状況を見ていた。
それからまもなく、穢魂の急増が確認され、軍部にはそれとはまた別と思われる怪異の目撃情報まで集まってきた。やがて特別討伐隊が結成され、それには楸も召集された。
椿のもとに天書鳩が届いた。伝えられた内容は、宮城近くの状況と椿への指示だった。穢魂は増えて、行動範囲を広げている。椿は朱桜離宮に残り引き続き護衛を任された。
「師匠。なにかあったら、わたしも戦います」
瀬々は椿の表情で、ただ事ではないことを察していた。いつも笑顔に努めている椿が真剣な顔をしているのは、そういうことだ。
「それは危険です」
椿は制止した。
「緊急事態なのでしょう? わたしは先生を悩ませたくない。それに、わたしに何かあったとして、どこの馬の骨ともわからない小娘の怪我や死にとやかく言う人はどこにもいません」
真顔で淡々と言ってのける瀬々の言葉は澱みなく、椿の背を押すどころか、手を引くような強さがあった。
「とやかく言う人がいるとしたら私ですね。でしたら私のそばにいて頂く方がよろしいでしょう」
椿の返事に、瀬々はただ頷いて、鞍寅や六白が暮らす小屋に走った。
「……どうかお許しください、陛下」
長い赤髪を靡かせて走る、その後ろ姿をあとから追いながら、椿はポツリ呟いた。香淵帝をそのまま少女にしたらこんなだろうか、と椿はふと思った。着飾らなくても華がある造作は母親に似ている。
椿と瀬々は、鞍寅や六白らの手綱を整えて、いつでも彼らに乗って避難できるように備えた。椿は瀬々に、「戦えなくとも、鞍寅とともに気を確かにいられるならそれだけで良い」と伝えておいた。
亡くなった青桐医師の診療を、椿も受けたことがある。青桐医師はおしゃべりで、診察中もぺらぺらと勝手に話をしていることが多かった。共通の知り合いならわけだから、弟――楸と比べられることもあった。
青桐医師曰く、椿は楸と「強さの種類が違う」とのことだった。椿は適当な相槌を打ちながら聞き流していた。弟の話を聞くのがまず心地よいものではなく、比べられていることも面白くなかった。青桐医師の一方的な語りは、椿にとって真綿で心臓を突くような、心地の悪さがあった。強さの種類が違う。椿は自分に欠けた、楸が持つ強さを知っている。
「緊急事態さえ良いように利用してやろうという胆力、この先も忘れないほうがいいでしょう。なにより今はとにかく、穢魂に不安や恐怖を気取られてはいけない……」
椿は瀬々にそう告げながら、半ば自分に言い聞かせながら、自身の跨る六白を走らせた。隣には鞍寅が瀬々を乗せて走る。瀬々はおかしくてつい、笑った。「良いように利用してやろう」か。そうだ。騒ぎに乗じてこの軟禁生活に、どんな形であれ終止符が打てるとしたらどうだろう、と考えたことは否定しない。
もう宮城の緊張感は最高潮に達していた。軍基地と隣接する御所から逃げ惑う使用人の顔は青ざめていた。悲鳴に混じって、皇太弟殿下がどうの、という叫び声が聞こえる。
楸は本来の護衛対象、香淵帝のそばに戻っていた。銃を携え、帝の控える部屋の前に立つ。
銃声と悲鳴が近づいてくるのを耳が聞き取り、人のものではない重たい歩みが近づいてくるのを足裏が読み取る。刻一刻と迫る危機を、身体中の神経が感じ取っている。
側の中将は、これから起こることに、起こさんとすることに躊躇いを覚えていた。楸はそれにやや苛立ちながらも、冷徹な口調で諭した。皇太弟殿下を生かして救う手立ては無い、と。
なるほど如何なる戦況に送られようともしぶとく生きて帰ってくる男だ、と中将は少将・楸を軽蔑さえした。優先順位をはっきりさせすぎている。それをはっきりさせるためなら人の心も捨てられるのかと心の内で嗤った。賢しいふりをして、本当はなにかの命を奪うのが楽しいだけなのではないか、と疑いもした。
帝も帝で、楸の懇願にあっさり許可を出してしまうから――
中将が脳内で小言を垂れている暇に、事態は急勾配を転がり落ちる大岩のように、悪化の一途を辿る。中将は香淵帝を連れて宮城を逃げる事となった。迫り来た〝皇太弟だったもの〟には少将が対応した。
まもなく宮城は大きな音を立てて崩れた。おそらくは、少将も皇太弟だったものも飲み込まれた。と、思った矢先、より来てほしくない方がまっすぐ後を追ってきた。少将に止められなかったものが自分に止められるはずがない、と中将は情けなくも死を覚悟した。香淵帝はなにも言わなかった。ただ、目の前の哀れな弟を、悼むように手を合わせていた。目を逸らしたくなるほどまっすぐに、どす黒い殺意を向けてくる怪物を、香淵帝は抱き止めた。鬼のように形を変えた、鋭い爪の指先は帝の胸を貫いた。即死した帝に一瞥もくれないまま怪物は別の場所へ脇目も振らずに去っていくのを、中将は見ていたが、気が狂ってその場で自害した。
そして怪物が向かった先。朱桜離宮は橙城の外れにあるとはいえ怪物の足には近所といっても過言でない。
天書鳩はまめに送られてきていたのだが、ある時点で通信が途絶えた。それが事態の悪化を意味することは、椿にも想像が容易いことだった。
死者を甦らせる薬を作れ。それが虹華帝国随一の医師で科学者、青桐雷に課された命題。
道理を引っ込めるためには無理を通さねばならなかった。死んだ命を取り返すのに必要な代償は計り知れなかった。
研究室の奥に隠した空間では門外不出の実験が行われ、そこでは死んだ命を甦らせるどころか、生きた命が終わるばかり。
雷は古今東西のあらゆる資料文献を収集し善処したが、正直なところ、「そんなものはない」と言いたかった。
この研究の副産物――小型の穢魂を無害化して利用できるよう、機械に組み込んで改造したものが天書鳩だ。真っ白いこけしのようなボディに、白い鳩のような翼があって飛ぶ。雷が込めた魔脚の力も手伝って、物理法則を無視した無機質な、妖精のような存在だ。
伝書鳩をもじって雷が名付けた。天という字は、そこに使われた命へのせめてもの慰みだった。
隠し扉で封じられた部屋の中には、あらゆる数々の命の残骸が眠っていた。生ぬるい薬液の中でそれらが膨らませたのは人間に対する憎悪。
まずはこの部屋の主、青桐雷を殺す。そして、雷にこの仕事を命じた皇帝を殺す。代々続けられているから、一族を根絶やしにしよう。狭い瓶の中、うまれた怪物は薬液に抱かれながらそう決めた。
皇太弟は、皇帝を守るために軍人らによって殺された。皇帝は、乗っ取られた皇太弟に殺された。皇帝にはまだ、隠し子がいるらしい。怪物の頭の中に急に入ってくる情報は確かなのかどうかもわからない。ただ〝知っている感覚〟が怪物の体を突き動かした。迷いなく離宮に辿り着いて、確信する。ここにいる、と。
瀬々の左腕を丸ごと頬張る。それを食いちぎったあと、髪一本残さず食べてしまおうと思った。
瀬々は怪物の口内で、自らの骨がまるで小枝のように砕けていくのを感じながらも、左手に持った拳銃の引き金を引く。その人差し指の動きが、瀬々の脳が左手に送った最後の指令だった。
魔脚に強化された弾は喉の中から、自らから離れた左腕ごと、怪物の頭を弾き飛ばした。最早どちらのものかわからない血飛沫と、硝煙、火薬の匂いが広がる。
それでも動きを止めない怪物から逃げるため、瀬々は残った右腕で鞍寅にしがみつき、脚で蹴って走らせる。手綱を操る余裕はなかった。それでも鞍寅は瀬々に応えて走った。
追ってこようとするなら狙いはわたしだ、と確信した瀬々は椿のことを置いて構わず逃げようとした。
それを椿が追い、怪物が追う。
穢魂の本能か。怪物の興味が瀬々よりも椿に向く。投げた瓦礫が椿の乗っていた六白の腹を貫いた時だった。乾いた空気の中で椿の紅玉色の瞳だけが潤む。溢れた涙の分、心に巨大な隙間が生まれたのに、吸い込まれるように向かっていく。使い古した雑巾に空いた穴に、さらに泥水が染み込んでいくような不快な充足感を持って、怪物は滑り込んでいく。
その隙に瀬々を取り逃すことさえ、その時はどうでも良くなった。穢魂にとって、人間の心の隙間ほど心地よい揺籠はない。その全てを食い潰すまで、弱った心に居座りたい。それに、皇太弟の体はさすがにもう使い物にならない。
椿が目を覚ましたのはそれからどれだけ時間が経った時かわからない。目を覚ましたということは気を失っていたのか? と本人が不思議がっていた。
死んだはずの六白も、すこし様子が違うが目を覚ましたようだ――その中身は穢魂にかわって。
それを見た椿は、自分ももしや死んだのか? と自身の身体を見たり触ったりして様子を確かめた。特に変わった気はしない。あの状況だったのになぜか大した怪我もしていない。
ただ、頭の中にいつのまにやら知らないことが入りこんでいる感じがした。それについて深く考えようとすればするほど頭が痛くなる。不自然な記憶に脳内をかき乱される。
怪物はどこでうまれ、何をしようとして、いまはどこにいるのか。問えば脳内から返事が来る。椿は強く波打って痛む頭を抱えながら、軍基地へ向かった。見たこと起こったことは報告しなきゃならない。それから……
それから瀬々は鞍寅とふたりきり、これからどうするか考えた。保護されて病院に運ばれて、失った腕の手当ては一通り済んだ。どうやら命は助かったらしいから、この先を生きていくのに必要なものをどう手に入れていくか。
その後一度、おそるおそる朱桜離宮に戻った時には、既に離宮は燃えて荒れ果ててしまっていた。自分の身のことばかりに集中していて気が付かなかったが、怪物が暴れて建物にも相当なダメージを与えていたようだ。
帰る家もなにもかもなくなった。やっと手にした自由は、こんなにも心許ない。かといって瀬々はそれに傷心するほど繊細な少女ではもうない。とりあえずは、橙城の街に留まって考えよう、と瀬々は右手で鞍寅の手綱を優しく引いて歩いた。歩きながら、瀬々は街ゆく人々の会話の全てに耳を澄ませた。情報を集めているのだ。先日の事件で死んだ研究員は名医でもあるらしかったこと、その医院が橙城の中心部にあること……。
土産物屋の前を通ると、人の大きさと同じくらいの絡繰人形が店頭で踊らされていた。店の中を覗くと手のひらサイズの小さいものもたくさん並んでいる。瀬々は思わず、その人形たちの腕に注目した。絵付けには作家ごとの癖が、絡繰の動きにはなんともいえない奇妙さがあるものの、造形は精巧。
店内には大小様々の絡繰人形が並ぶ。瀬々は戦いに備えて離宮から逃げられるように準備していた時、なんとなく鞄に詰めた人形のことを思い出して、絡繰人形たちを思わずじっと眺めてしまった。
店主に声をかけられる。見過ぎて不審に思われたか、と身構えたが、店主はにこにこ近づいてきて、店の奥の方にいた人形師を紹介してきた。丁度わたしが眺めていた人形の作者本人が、たまたま居合わせていたのだ。
今まで女性の世話人としか話したことがなかった瀬々は、彼の軽い会釈一つで硬直してしまった。
隣に椿がいない。それだけで、自分の吸い込む空気がひどく薄く、頼りなく感じられる。見知らぬ他者との距離感が掴めず、瀬々の指先は無意識に服の裾を弄んでいた。
しかし、その男性が纏う空気は、不思議なほど凪いでいた。陰気、というよりは、陽の当たらない場所に置かれた古道具のような、乾いた静けさ。疲れた、くたびれた、ではまだ足りないような、無気力。
瀬々は話すのが苦手どころかおしゃべりな方だ。話題に窮してもどうにか口を動かして場を保つ。
そんなとりとめもない独白を、彼は反論も、相槌さえも打たず、ただ空いた器で受け止めるように、聞いていた。決して「話しやすい」のではない。喉でつまづいた不格好な言葉たちが、彼の発する気だるい微熱の中に、抵抗なく吸い込まれていくのだ。指摘されることも、修正されることもない。
鏡のようにただそこに在るだけの男の横で、瀬々は初めて、自分の呼吸が平熱に戻っていくのを感じた。
瀬々は青桐医院のドアをノックした。程なくして開いだドアの向こうには、まだ十代前半くらいの女の子。目が腫れているように見えるが、患者ではない。
「父なら席を外してますが」
ツンとした態度の少女が言うのに、瀬々は半ば強引に話を続けた。
「ここの先生が名医だと聞きまして、お願いがあって参りました。先日の騒ぎで失った腕のかわりを作って欲しいのです。形だけのものより、できれば戦える腕がいい。これは社会貢献的な意味でなく、わたしの個人的な興味にすぎない話ですが、もう一度あの怪物に会いたい。そして会うからには次は……」
瀬々は腕のない左袖を右手でひらひらと遊ばせて見せた。少女――鱗は瀬々の隻腕に気づく。
鱗はすこし考えた。父の研究は多岐にわたる。地下の書斎に何か残っていれば、少しでも力になれないか? それに、この人は再度怪物に、戦える腕を持って会いに行こうとしている――それは父の仇を取ることにも繋がる。
「いい返事ができるかはわからないけど……」
鱗は時間をくれと頼んだ。瀬々は了承した。
その後ほどなくして、「実用化にはまだ遠いんだ」と父、雷が言っていた義肢の設計図を見たことがあるのを思い出し、鱗は父の書斎を片っ端から漁った。雷と関わりのあった軍人というのは、時に手足を失うような激しい負傷もする。
資料に目を通すと、試作段階で義肢の製作を任せていた人形師の名も書いてあった。鱗はその人形師を探した。もう数年前に亡くなっていて、ほんのつい最近孫が工房を継いだという情報に辿り着く。さらに、その孫の名は、どこかで聞いた――いや、よく知った名前だった。
鱗は墨波地区へ向かい、その人形師の工房を訪ねた。見つけた資料を押し付けて、義手製作を頼めないか打診した。父を喪って、母もおかしくなった。鱗は家でそのことばかり考えているのに疲れてしまっていたせいか、そこから気を逸らすかのように、変に必死に義手の件を訴えた。
食い下がらない鱗に、人形師――本人曰く諸事情で軍を退いたという、楸は短いため息をついて、
「落ち着きなよ。時間はもらう。そんで、本当にできるかも確約できない。善処はするが……」
と宥めた。落ち着きなよ、と言われて初めて、自分が冷静でないことに気づく鱗。対していつもよりかえって落ち着いて見える楸の振る舞いに、身体中の力みが解けた。
「本人とも打ち合わせが必要だよなぁ……当然、その義手を求めている人とは連絡つくんだよな? 今度連れてきて……ついでに、茶菓子か汁粉くらいしかないけど、お嬢も遊びに来るつもりでさぁ」
自分が赴いたっていいのだが、鱗の気分転換を兼ねるならば来てもらうのもありだろうと考えて、楸はそう言った。
思わず、前線を退いてなお傷だらけの掌を見て、それから強く握り込む。
かたや父を失い母も病み、かたや身体の一部を失った、孤独な少女ら。
かの事件での心的外傷と、不慣れな新業務への困惑で危うく潰れてしまいそうな精神が、強かな彼女らの姿を見て、持ち堪えんと踏ん張る。
数ヶ月後、希望に沿った戦える義手を手に入れた瀬々は、生計を立てていくため、仕事を探した。
義手制作の代金についても工面しなくてはならないが、楸は要らないという。その代わりに安全確保のため、必ず定期的に整備に通うことを約束したのみ。
鞍寅に乗って旅をしながら、鱗の薬を売り歩くのが始まりで、徐々に他のものも扱うようになった。遺跡を巡るのが好きだと気づいたので、遺跡発掘の許可も取得して、それも生業とした。
旅をしていれば、どこかで行方不明になった椿を発見できるかもしれない。それに変に屋敷に閉じ込められているより、こうして市井に紛れていたほうが余程、自分さえ知らない出自を悟られないようにするには丁度いい。
時が経てば、いつか本当に何者かわからなくなる日が来るかもしれないから、自分が何者なのかは自分で決めよう。そう瀬々は決意を新たにした。
軍基地で一通りの報告を済ませ、弟・楸の自害を阻止して発破をかけた後、椿は行方をくらませてしまった。椿自身も、どこへ向かっているのかわからないまま、森の奥へ進んでいく。緑色だけがひたすら続く景色の変わらない道を進むのは、ぼんやりとした頭には酷だった。ここがどこかもわからないのに、足は勝手に進む。
痛みを感じているのは頭だけのはずなのに、いつもより随分重い脚を一歩一歩運び、湿っぽい茂みを掻き分け森の中を進み、椿は禁域の前に辿り着いた。皇帝が張っていた結界はいつのまにか解け、出入りは容易い状態になっていた。岩戸を押し開けて中へ進む。
ゴオゴオ響く隙間風の音、揺れる紙垂。地面で、壁で、天井で蠢くなにかのかけら。それらを通り過ぎて辿り着いた、洞窟の壁にかけられた四つの祠は、凶神を祀る社だ。椿は――否、怪物は彼らに祈った。
「私と契約してこの国を理想郷にしましょう」
怪物は椿の声帯を借りて言う。それに応える何らかの声が響く。椿にはどうしてか、それが知っている言葉には聞こえなかった。
怪物は凶神と契るため、椿を御供にしようとここへ連れてきたのだ。椿がそれに気がついても、意識はどこか深いところに追いやられて、声を上げることも身体を動かすこともできない。
ただ朦朧としていく中、どこかで地鳴りの音が聞こえた気がして、次の瞬間、視界をジャックするほどに煌めく極彩色を見た。この時、椿が認識できたのはそこまでだった。そして直感した。またなにか良からぬことが始まってしまうと。
――大事件は、収束したばかりではなかったっけ。